日本共産党(にほんきょうさんとう、)は、1922年に設立された日本の政党。科学的社会主義を党の基礎に掲げる。当面は対米従属と大企業の支配に対する民主主義革命を、将来的には社会主義的変革を目指すとしている<ref name=Koryo>日本共産党綱領(2004年1月17日 第23回党大会で改定)</ref>。
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党名・呼称・党章
正式な党名は「日本共産党」。略称は「共産党」。英語名は「Japanese Communist Party」(略称:JCP)。
自称では正式名称の「日本共産党」を使用する場合が多い。「日共」という呼称は、同党にたいして攻撃的な立場から使用される場合が多い。また党本部の住所は千駄ヶ谷だが最寄り駅が代々木駅のため、暗示的に「代々木」と呼ばれる場合もあるが、これは日本共産党(の現執行部)を日本の正統な共産党と認めない新左翼などの他の共産主義者から使用される場合に多い。同様に、数多く存在した「日本共産党」を自称する他の党派と区別するため、特に「日本共産党(志位派)」「日本共産党(代々木派)」などと表記することもある。更には日本共産党の正統性を否定する立場から「日「共」」のように鉤括弧を付けた記載例もあるが、これは日本共産党自身が新左翼各党派を「ニセ「左翼」」や「ニセ「左翼」暴力集団」、部落解放同盟を「「解同」」[部落問題の現状は? - 日本共産党]と、鉤括弧を付けて記載するのと同じ用法である。
党章は、一つに合わせられた4枚の赤旗の上に稲穂を通した歯車。稲穂と歯車は鎌と槌と同様に農民・労働者を表す。
党勢
党員は約40万人(うち、党費納入者は推定25万8000人)、機関紙「しんぶん赤旗」の発行部数は約164万部(党第25回大会、2010年1月)、職場・地域・学園に約2万4000(2005年現在)の支部を置くなど、発達した資本主義国の共産主義政党としては、最大の規模を持つ。
日本共産党の2010年7月末現在の国会勢力は、衆議院議員9名、参議院議員6名である。地方議員数は2010年11月30日時点で2,980人。また、9人の党員地方自治体首長を抱えている。
財政
日本共産党の資金源は(1)事業(機関紙)収入(2)党費(3)個人寄付によって成り立っている。一般的に、日本の議員は政治資金面で、党よりも自己の収入や政治献金に多く依存し、組織的には政治家個人を推す後援会を基盤としているが、日本共産党議員の場合は資金・組織の両面で党が主柱になっている。企業献金については、「見返りを求めない企業献金などあり得ず、政治を腐敗させる元凶」として受け取らず、団体献金についても「団体に所属する構成員の思想・信条の自由を侵害する」という理由で受け取っていない。ただし、共産党を支持する企業経営者からの個人献金は受け取っている。
政党交付金(政党助成金)については憲法違反の制度であるとして受け取りを拒否している唯一の党である。かつて第二院クラブが、登録はしておいて助成金の受け取りを拒否し、自党が受け取るはずの助成金を国庫に戻させることにより、自党分の助成金が他政党へ配分されることを回避していたが、共産党は登録をすること自体が政党助成制度を認めるとして登録をしないため、共産党に割り当てられるはずの政党交付金は他党に配分されている。
その政治資金の大半は機関紙発行の資金として運用している。特に機関紙『しんぶん赤旗』は、非党員の支持者の読者も多く抱えるが、現在は読者数が減少しており、同党自身「『しんぶん赤旗』の読者数は、1990年に約286万人だったのが、現在、199万人余になっている」(同党第22回党大会決議、2000年11月)としている。
現状認識と二段階革命論
2004年に改定された現在の日本共産党綱領(以下、綱領とよぶ)では、現在の日本を「わが国は、高度に発達した資本主義国でありながら、国土や軍事などの重要な部分をアメリカに握られた事実上の従属国となっている」と現状認識し、現在、日本で必要な変革は社会主義革命ではなく「民主主義革命」であり、その次の段階で「社会主義的変革」をめざすとしている[。これは、いわゆる二段階革命論の1種で、1961年の綱領から続いており][日本共産党資料館]、歴史的にはコミンテルンの32年テーゼや日本資本主義論争の講座派の流れを汲んでいるが、現在の主張と最終的な目標が異なるとして批判や警戒も存在する。
+ 日本共産党の現状認識と目標||+ 日本共産党の現状認識と目標||項目 || 現状認識 || 民主主義革命 || 社会主義的変革
[[政府]]||[[政府]]||「対米従属」し、「大企業・財界を代弁」 || 「独立、民主主義、平和、生活向上を求めるすべての人を結集した統一戦線と日本共産党が、国民多数の支持と国会の過半数を得て政府をつくる」(民主連合政府) || 「社会主義を支持する国民多数の合意と国会の過半数をもとに、社会主義をめざす権力をつくる」
[[日本国憲法]]||[[日本国憲法]]||民主政治の柱となる一連の条項を定めた。 || 「現行憲法の全条項をまもり、とくに平和的民主的諸条項の完全実施をめざす」 ||rowspan="4"|「日本における社会主義への道は、多くの新しい諸問題を、日本国民の英知と創意によって解決しながら進む新たな挑戦と開拓の過程となる」として、具体的な制度は記載なし
[[天皇制]]||[[天皇制]]||憲法上の制度として、天皇制を容認(日本は君主制でも共和制でもないとしている)憲法の天皇条項は「民主主義の徹底に逆行する弱点」としている。 || 「天皇の政治利用をはじめ、憲法の条項と精神からの逸脱を是正する。」
[[自衛隊]]・軍備||[[自衛隊]]・軍備||「自衛隊は米軍の掌握下にあり、アメリカの世界戦略の一翼を担わされている」 || 「海外派兵立法をやめ、軍縮の措置をとる。安保条約廃棄後のアジア情勢の新しい展開を踏まえつつ、国民の合意での憲法第九条の完全実施(自衛隊の解消)に向かっての前進をはかる。」(段階的縮小論)
日米関係||日米関係||「日本はアメリカの事実上の従属国」 || 「日米安保条約を廃棄し、対等平等の日米友好条約を結ぶ」(非同盟・中立)
国際情勢・[[外交]]||国際情勢・[[外交]]||民主主義が世界の主流となりつつある。「世界でアメリカ帝国主義が最大の脅威」。社会主義は歴史の発展方向。 || 「すべての国と友好関係を結び、核兵器廃絶、軍縮、民主的な国際経済秩序の確立などの平和外交を展開する。」 || 共産主義社会が「高度な発展をとげ、搾取や抑圧を知らない世代が多数を占めるようになったとき、原則としていっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、…抑圧も戦争もない…共同社会への本格的な展望が開かれる」としている。
議会制民主主義]]||議会制民主主義]]||「民主的変革の道が制度面で準備されている」と制度面を評価 || 「議会制民主主義、反対党を含む複数政党制、政権交代制は当然堅持する」 || 「民主主義と自由の成果をはじめ、資本主義時代の価値ある成果のすべてが、受けつがれ、いっそう発展させられる。」としている。具体的な制度は記載なし日本共産党は「
自由と民主主義の宣言」に、将来の社会主義日本を含めて「議会制民主主義」など「憲法五原則は将来ともに守り、さらに充実」させると明記している。。
経済体制||経済体制||「独占資本主義」 || 「資本主義の枠内で可能な民主的改革」 || 「社会主義・共産主義」
民主主義革命
日本共産党は、現在の日本社会が必要としている変革は、社会主義革命ではなく、以下の民主主義革命であるとしている
[。]
*国の独立・安全保障・外交の分野
** 対米従属を打破し、日米安全保障条約の廃棄と非同盟・中立の日本を実現する。アメリカ合衆国とは対等平等の友好条約を結ぶ。
*憲法と民主主義の分野
** 憲法改定を断固許さず、平和的民主的条項の完全実施をめざす。
** 議会制民主主義の体制、反対党を含む複数政党制、選挙で多数を得た政党または政党連合が政権を担当する政権交代制は、当然堅持する。
** 基本的人権を抑圧するあらゆる企てを排除する。女性の社会的地位を高める。信教の自由を擁護する、等々。
*経済的民主主義の分野
** 長時間労働や解雇の規制を含め、ヨーロッパ並みの「ルールある経済社会」を実現する。
** 大企業(独占資本)へのさまざまな民主的規制と、軍縮や無駄な公共事業の中止、大企業・資産家優遇税制の見直しを財源とした社会保障の充実。
以上の民主主義革命によって、日本はアメリカの事実上の従属国の地位から抜け出し、真の主権を回復するとともに、国内的にも国民が初めて国の主人公になるとしている。また、日本は軍事的緊張の根源であることをやめ、平和の強固な礎に変わるとしている。
この民主主義革命は、1961年綱領では、「日本の当面する革命は、アメリカ帝国主義と日本の独占資本の支配――2つの敵に反対するあたらしい民主主義革命、人民の民主主義革命である」とされ、1994年の綱領までほぼ同一の表現であった。2004年の綱領改定時には「多数者革命」や「議会の多数を得ての革命の路線」との説明がなされた。
民主主義革命への過程:統一戦線にもとづく「民主連合政府」構想
日本共産党は、「日本共産党と統一戦線の勢力が、国民多数の支持を得て、国会で安定した過半数を占めるならば、統一戦線の政府・民主連合政府をつくることができる。」[として、単独政権ではなく統一戦線にもとづく連合政権をめざしている。また「国会を名実ともに最高機関とする議会制民主主義の体制、反対党を含む複数政党制、選挙で多数を得た政党または政党連合が政権を担当する政権交代制は、当然堅持する。」としている][。]
この「統一戦線」は歴史的には、1945年の綱領では「いっさいの民主主義勢力の結集による人民戦線の結成」や「正しき実践的目標の下に協同しうるいっさいの団体および勢力と統一戦線をつくり」とされ、1947年の綱領では「広範な民主戦線」、1961年から2004年までは「民族民主統一戦線」と表現されていた。この「民族民主統一戦線政府」は「革命の政府」へ移行するとしていたが、2004年の綱領改定でこの規定は削除された。
社会主義的変革
日本共産党は、当面の民主主義革命の後に、社会主義を支持する国民の合意を前提に、国会の安定した過半数を得て社会主義をめざす権力をつくり、以下の社会主義的変革をめざすとしている[。]
*資本主義を乗り越え、社会主義・共産主義の社会への前進をはかる
*主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化
*民主主義と自由の成果、資本主義時代の価値ある成果のすべてを受けつぎ発展させる
*思想・信条の自由、反対政党を含む政治活動の自由を厳格に保障する
社会主義・共産主義の社会では、「さまざまな思想・信条の自由、反対政党を含む政治活動の自由は厳格に保障される。」とし、一党独裁制や指導政党制は採らないとしている。また、ソ連型社会主義の官僚主義・専制の誤りは繰り返さないと強調している。これらは「自由と民主主義の宣言」に より詳しく記載されている。ただし、これらは主に理念的な内容であり、社会主義・共産主義の社会での、憲法、政府、軍備、議会、私有財産制の範囲などの具体的な詳細は記載されていない。日本共産党は、これらは将来の世代が創造的に取り組む課題であり、いまから固定的に決められないとしている。
社会主義社会が高度に発展すると、搾取や抑圧を知らない将来の世代では「原則としていっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会」への展望が開かれるとしている。
なお、この「社会主義的変革」は、1961年の綱領では「社会主義革命」との表現であったもので、1994年に「社会主義的変革」という表現に変更された。また、「社会主義社会は共産主義社会の低い段階である」とする二段階発展論がマルクス・レーニン主義の定説であったが、マルクス、エンゲルス自身はそういう区別をしていなかったとして二段階発展論をやめ、2004年の綱領改定で「社会主義・共産主義の社会」という表現に変更された[綱領改定についての報告(2004年1月15日)日本共産党 中央委員会議長 不破哲三]。
憲法の取扱い
綱領では、日本国憲法を「民主政治の柱となる一連の民主的平和的な条項を定めた」と評価し、当面の「民主主義革命」では「現行憲法の前文をふくむ全条項をまもり、とくに平和的民主的諸条項の完全実施をめざす」としている。将来の社会主義的変革における憲法に関する記述はない。
歴史的には、敗戦直後の大日本帝国憲法下で「天下り憲法廃止と人民による民主憲法の設定」を掲げた(1945年の行動綱領)。1961年の綱領では「憲法改悪に反対し、憲法に保障された平和的民主的諸条項の完全実施を要求してたたかう」とした。
天皇制の取扱い
綱領では、日本国憲法の天皇条項について、「民主主義の徹底に逆行する弱点を残した」との批判と、「天皇は「国政に関する権能を有しない」ことなどの制限条項が明記された」との評価が併記されている。また、共産党は、「一人の個人が世襲で『国民統合』の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ」としている。同時に、「天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである」としている[。]
歴史的にみると、共産党は敗戦直後の、天皇が日本を統治していた大日本帝国憲法下で「天皇制の打倒、人民共和政府の樹立」を掲げた(1945年の行動綱領)。1961年の綱領では、現行憲法について天皇条項など「反動的なものをのこしている」として、民主主義革命のなかで「君主制を廃止」するとしていた。2004年の綱領改定で現在の方針となった。現在の日本について、日本共産党は、君主制にも共和制にも属さない過渡的な状態との認識を示している。
こうした立場から、日本共産党は国会開会式への天皇の出席や、いわゆる「皇室外交」について「憲法違反」として認めておらず、中止を要求している。このため共産党の国会議員団は国会開会式に出席していない。
自衛隊の取扱い
綱領では、「民主主義革命」後に「海外派兵立法をやめ、軍縮の措置をとる。安保条約廃棄後のアジア情勢の新しい展開を踏まえつつ、国民の合意での憲法第九条の完全実施(自衛隊の解消)に向かっての前進をはかる」とする段階的解消論である。
歴史的にみると、1961年の綱領では自衛隊は「事実上アメリカ軍隊の掌握と指揮のもとにおかれており、日本独占資本の支配の武器であるとともに、アメリカの極東戦略の一翼としての役割をおわされている」とし、1961年から1994年までは「自衛隊の解散を要求する」と明記していた。1980年代ごろまでは、対米従属の自衛隊は解消し、その後に改憲を視野に入れて自衛のための組織を持つという武装中立政策であり、非武装論や護憲論ではなかった。
その後、日本共産党は1994年の第20回党大会で、現行の日本国憲法第9条(戦争の放棄、戦力の不保持)は将来にわたって継承・発展させるべきものであり、社会主義・共産主義の理想と合致したものであると表明した。さらに2000年の第22回大会で、同党の自衛隊政策を、(1)軍事同盟である日米安保条約の解消前はできるかぎり軍縮し、(2)日米安保条約解消後も国民が望めば存続し、(3)国民が国際情勢などから解消しても問題ないと判断すれば自衛隊をなくす、という「段階的解消論」に転換した。
なお、第22回大会では、(1)または(2)の段階で万が一、急迫不正の主権侵害があれば、自衛隊も活用することを正式に決定した。ただし他党と比べて「専守防衛」の武力行使自体にもかなり慎重である。「自衛隊『活用』」論についてはこの大会前に、党員からの少なくない批判や削除要求が挙げられ、大会でも代議員から批判的な意見も出た。
2001年12月22日の北朝鮮工作船との交戦事件では当初は態度を表明しなかったが、委員長志位和夫は「日本への主権侵害に対応するのは第一義的に警察力である海上保安庁だ。その機能を充実させることは必要だ」と発言し、後に海上での攻撃を可能とする海上保安庁法改定案に賛成した。
2007年6月には陸上自衛隊情報保全隊が密かに収集していたイラク戦争反対の市民団体や著名人のリストを入手し公表した(詳細は''情報保全隊の市民活動監視問題''を参照)。
自由と民主主義の取扱い
日本共産党は綱領で、当面の「民主主義革命」において「議会制民主主義の体制、反対党を含む複数政党制、選挙で多数を得た政党または政党連合が政権を担当する政権交代制は、当然堅持する」としている。将来の「社会主義的変革」においても、「民主主義と自由の成果をはじめ、資本主義時代の価値ある成果のすべてが、受けつがれ、いっそう発展させられる」としている。具体的にどのような民主主義制度を採用するか、例えば議会や投票や政党が現在と同様の形で存在するかどうかなどは、今から固定的に決められないとしている。「国民の合意のもと、一歩一歩の段階的な前進」、「すべての段階で、国民の合意が前提となる。」と綱領に明記しているが、〈暴力革命〉をすべての場合に構想しないとは記載されていない(敵の出方論参照)。
なお、共産党は1976年に「自由と民主主義の宣言」を発表し、3つの自由として、(1)生存の自由、(2)市民的政治的自由、(3)民族の自由、を将来にわたって守ることを公約している。特に、市民的政治的自由については、旧社会主義諸国の否定的経験も踏まえ、議会制民主主義や三権分立の堅持と発展、言論・出版の自由やその他一切の表現の自由、信教の自由、学問の自由、団結権、人身の自由、文化の自由、芸術の自由の擁護と発展、国定哲学の否定、少数民族、個人生活の自由の擁護を宣言している。
歴史的にみると、1945年の綱領には「いっさいの反民主主義団体の解散」や「民主主義の敵たる天皇主義御用政党の排撃」とあり、1961年の綱領には社会主義建設の一環として「労働者階級の権力、すなわちプロレタリアート独裁の確立」が挙げられていた。1973年に共産党は「ディクタツーラ」の訳語を「独裁」から「執権」に変更し、1976年には「プロレタリアート執権」も削除して、上述の「自由と民主主義の宣言」を発表した。
財源
日本共産党は、以下の歳入と歳出の改革によって7兆円~12兆円程度の財源をつくることができ、さらに日本経済が家計・内需主導の成長の軌道にのれば安定的な税収増が見込めるので、消費税に頼らなくても安心できる社会保障の財源をつくることができると主張している。[参院選公約“アメリカ・財界いいなり”から「国民が主人公」の政治への転換を--そうしてこそ「政治を変えたい」という願いが生かせます]
(1)歳出
* 年間5兆円にのぼる軍事費(防衛費)を1兆円削減するとしている。[2010年参議院議員選挙にのぞむ日本共産党の政策集](より正確には、海外派兵費用の削減としている)
* 「1メートル1億円」かかる東京外環道計画を中止し、不要不急の事業を中止・延期するとしている。
* 高速道路無料化を中止するとしている。
* 官僚の天下りを禁止し、政府・官僚・財界の癒着や特権にメスを入れて、浪費を正すとしている。
* 高速増殖炉「もんじゅ」への財政支出をやめ、危険な原子力発電推進予算にメスを入れるとしている。
* 使い道が不明のまま積み立てられている「経済危機対応・地域活性化予備費」1兆円を国民の暮らしのために活用するとしている。
* 政党助成金を廃止するとしている。
(2)歳入
* 下げすぎた所得税の最高税率を元に戻すとしている。
* 現在10%の証券優遇税制を20%に戻し、さらに諸外国なみに富裕層は30%以上に引き上げるとしている。
* 相続税・贈与税の最高税率を元に戻すとしている。
* 大企業への優遇税制をあらためるとともに、下げすぎた大企業の法人税率を段階的に元に戻すとしている。
* 大企業の過剰な内部留保と利益を、雇用と中小企業など社会に還元し、家計・内需主導の経済成長の軌道にのせるとしている。
雇用
(1)非正規雇用
* 非正規から正規への雇用の転換を、雇用政策、経済政策の柱として位置づけ推進するとしている。
* 労働者派遣法の改正については、「常用型派遣」と「専門業務」という政府案の抜け穴をふさぎ、「使い捨て」の働かせ方を規制し、派遣労働者から正社員への道を開く抜本的な修正案の実現をめざすとしている。
* 期限の定めのある雇用契約は合理的な理由がある場合に限定し、非正規と正規の均等待遇の原則を確立するなど、非正規労働者の雇用と権利を守るとしている。
(2)賃金
* 時給1000円以上を目標に、最低賃金を大幅に引き上げるとしている。
* 国や自治体に賃金底上げの公的な責任を果たさせるとしている。
(3)労働条件
* 違法な「サービス残業」を根絶し、残業の上限を法律で制限し、残業代の割増率を50%に引き上げるなど、長時間・過密労働をなくすとしている。
(4)就職難の打開
* 非正規から正規への雇用の転換、長時間労働の是正、公務・公共分野での非正規化の中止、社会保障の拡充や環境重視への政治の転換による雇用創出が必要としている。
* 面接解禁日の設定や卒業後3年間は「新卒扱い」とするなど、学業と両立できる「就活ルール」をつくるとしている。
(5)失業者への支援
* 雇用保険を抜本的に拡充するとしている。
* 公共職業訓練所の統廃合をやめ、充実・強化するとしている。
中小企業
* 中小企業は、企業数の99%、雇用の7割を支える日本経済の根幹であり、下請け単価の買いたたきや一方的な発注中止・変更などの無法をやめさせるために、下請け2法、独占禁止法の改正・強化をおこない、大企業と中小企業との公正な取引のルールをつくる、としている。
* 中小企業予算を1兆円に増額するなど本格的な支援に国があげてとりくむとしている。
* 高い技術力をもつ「日本の宝」=町工場を守るために、家賃・リース料などの固定費補助の緊急支援などをすすめるとしている。
社会保障
社会保障を削減から充実へと抜本的に転換するとしている。
(1)医療
* 後期高齢者医療制度をすみやかに廃止するとしている。
* 先進国では当たり前の"窓口負担ゼロ"をめざし、まず高齢者と子どもの医療費の無料化を国の制度として実施するとしている。
* 高すぎる国民健康保険料を引き下げ、生活困窮者からの保険証取り上げをやめさせるとしている。
* 診療報酬を抜本的に増額するとしている。
(2)年金
* 年金の受給条件を「25年以上」から「10年以上」に引き下げるとしている。
* 全額国庫負担で当面月5万円を保障し、支払った保険料に応じた金額を上乗せする、最低保障年金制度をすみやかに創設するとしている。
(3)介護
* 国庫負担割合を介護保険発足前の50%にまで戻すことで財源を確保するとしている。
* 住民税非課税の高齢者には原則として保険料・利用料を求めない仕組みをつくるなど、お金を心配せず利用できる介護制度をめざすとしている。
* 要介護認定や利用限度額は廃止し、現場の専門家の判断で必要な介護を提供できる制度に改善するとしている。
* 5カ年計画で、42万人にのぼる特養ホーム待機者の解消をめざすとしている。
* 民主党が前回総選挙で公約した介護労働者1人4万円の賃上げのすみやかな実施を求めるとしている。
(4)障害者
* 障害者の福祉・医療の無料化をめざし、応能負担をすみやかに撤廃するとしている。
* 障害者自立支援法を廃止して、難病や慢性疾患をもつ人、高次脳機能障害、発達障害など、支援を必要とするすべての人を対象とする障害者総合福祉法を制定するとしている。
(5)貧困対策・生活保護
* 住所の有無や年齢などを理由にした生活保護申請の門前払いをやめさせるとしている。
* 老齢加算の復活をはじめ、自公政権によって改悪された生活保護の加算・給付を元に戻し、充実をはかるとしている。
子育て支援
(1)子育てと仕事が両立できる社会
* 残業規制の強化など長時間労働の是正、育児休業制度の改善、妊娠・出産にともなう不当な解雇や退職勧奨、不利益な扱いをなくすこと、若い世代に安定した雇用を取り戻すことなどが大切としている。
* 保育所の面積や職員配置などの国の最低基準をなくす規制緩和や、保育所に対する市町村の義務をなくし保護者と保育所の「直接契約・自己責任」にする動きなど、保育への公的責任を後退させ、負担増や格差をもち込む大改悪を中止させ、公的保育を守り、充実させるとしている。
* 保育所に入れない待機児童をゼロにするために、当面1年間で10万人分、3年間で30万人分の保育所を国の責任で整備するとしている。
* 保育士の待遇改善、保育料の負担軽減などのために、年間4000億円程度を確保するとしている。
* 幼稚園の授業料の負担軽減や、希望者全員が入れる学童保育をめざすとしている。
(2)子どもの医療費
* 子どもの医療費負担軽減を拡充するとしている。
(3)教育費
* 高校も大学も無償化していくことは、国際人権規約で定められている世界のルールであり、ヨーロッパでは教育費負担がほとんどかからない国が少なくないとの認識から、義務教育、高校、大学、専門学校をふくむすべての段階で教育費の軽減・無償化をすすめるとしている。
(4)子どもの貧困
* 生活困窮世帯の子どもに給食費・学用品などを援助する「就学援助」への国庫補助を復活するとしている。
* 児童福祉施設の生活と進学保障の充実、児童相談所の体制強化を緊急にすすめるとしている。
教育
日本共産党は、教育格差、競争や管理などのゆがみをただし、子どもたちが「わかった!」と目を輝かす授業、子どもの声をじっくり聞いてあたたかく接する先生-そんな教育が全国どこでもおこなわれるようにするとしている。
(1)教育費の負担軽減
:「子育て支援」を参照
(2)教育条件
* OECD加盟国で最低水準の教育予算を早期に平均まで引き上げるとしている。
* 教職員を増員・正規化し、国の制度として「30人以下学級」を実施するとしている。
* 私学助成を増額し、公私間格差を是正するとしている。
* 大学を疲弊させている「基盤的経費」の減額をやめ増額し、基礎研究や若手研究者支援などを拡充するとしている。
* 教職員の身分を不安定にし、教育・研究環境に悪影響をもたらす任期採用制に反対している。
(3) 教育の自由と自主性、子どもの豊かな成長
* 上意下達の学校運営をやめ、教職員、子ども、保護者等の参加と共同で学校を運営できるようにするとしている。
* 教員の「多忙化」を解消するとしている。
* 学習指導要領の法的拘束力をなくし、内容も国民の英知を集めて改めるとしている。
* 教科書の検閲的な検定をやめ、採択に教員や父母の意向を反映させるとしている。
* 基本的人権を大切にする市民道徳の教育を重視するとしている。
* いじめのもみ消しを根絶し、子どもの命最優先の学校をつくるとしている。
* 子どもの気持ちを無視する「不登校ゼロ」政策をやめ、不登校の子どもの学びと自立を支援するとしている。
(4)競争・ふるいわけ教育
* 「全国いっせい学力テスト」を中止し、すべての子どもに基礎的な学力を保障する体制をつくるとしている。
* 高度に競争的で子どもの成長をゆがめている高校や大学の入試制度を改革するため、国民的検討の場を設け、改革に着手するとしている。
(5)教育の制度と法律
* 教員免許更新制、教育活動の数値化など教育の条理に反する制度を見直し・廃止するとしている。
* 硬直化した教育委員会制度を民主的な制度に刷新するとしている。
* 子どもの権利を教育のあらゆる場で保障するとしている。
* 君が代・日の丸の強制、侵略戦争の美化の公教育への持ち込みに反対するとしている。
農林漁業
(1)農業における価格保障と所得補償
* 価格保障と所得補償により、米60kgあたり1万8千円前後が保障されるようにするとしている。
(2)後継者確保
* 「月15万円を3年間」の支給を柱とする「新規就農者支援法」の制定や、林業、漁業の新規就業者への支援制度の創設に取り組むとしている。
* 新規就業者の技術指導を引き受ける農林漁業者、農業生産法人、森林組合、漁協にたいする援助を強化するとしている。
(3)貿易ルール
* 農業に壊滅的な打撃を与える日豪EPAや日米FTAに断固反対している。
* WTO農業協定を根本から見直し、関税の維持・引き上げなどの輸入規制や価格保障など食料・農業政策を自主的に決定する権利=「食料主権」を保障する貿易ルールを確立するとしている。
* 林産物、水産物についても環境や資源循環を守る立場から輸入を規制し、国内の林業・水産業の振興を保障する貿易ルールをめざすとしている。
(4)予算
* 農業の再生や食料自給率の回復には、長期の見通しに立った計画的な取り組みと予算の思い切った増額が必要としている。農家が安心して生産に取り組める水準の価格保障・所得補償に4千億円、食料自給率50%をめざした増産に4千億円を含め、1兆円の農業予算の増額が必要としている。これは農業予算の割合を2000年の水準に戻せば可能としている。
(5)食の安全
* BSE(牛海綿状脳症)対策で全頭検査を維持するなど食に関する信頼を高めるとしている。
地球温暖化防止、エネルギー問題
(1)二酸化炭素の削減
*2010年に廃案となった民主党の地球温暖化対策基本法案は、途上国を含むすべての主要国がCO2(二酸化炭素)の大幅削減に同意しない限り、日本のCO2中期削減目標を設定しないとしていた。共産党は、こうした姿勢では先進国としての責任を果たせないと批判し、2020年までに1990年比でCO2を30%削減することを明確にした日本の中期目標を確立し、実現していくための手だてを講じるとしている。
*日本の二酸化炭素排出の8割は企業であり、共産党は、国と産業界との間で削減目標を明記したCO2削減協定を義務づける必要があるとしている。
(2)自然エネルギーの活用
*共産党は、自然エネルギーによる電力を、10年程度で初期投資を回収できる価格で電力会社が全量買い取る「固定価格買い取り義務制度」を導入するとしている。
*共産党は、日本や東アジアの気候にあった発電機器の開発をすすめるとしている。
*共産党は、日本の再生可能エネルギーの利用や省エネの技術・ノウハウを生かして、途上国の温暖化対策を支援するとしている。
*大型風力発電機、ポンプ、コンプレッサーなどから発生する低周波騒音・振動によって、不眠、頭痛、めまいなどの健康被害が出ている。共産党は、低周波の健康への影響について調査・研究し、設置のさいの距離条件の設定、低周波を発生しない製品の開発など、本格的な対応が必要としている。
(3)原子力発電
*民主党政権は、原子力発電を「温暖化対策の切り札」とし、長期的には電力の半分以上を原子力発電でまかなおうとしていた。共産党は、原子力発電は技術的に未確立で、事故や廃棄物による放射能汚染という環境破壊の危険も大きいため、原発大増設路線をやめ、段階的に原子力発電から撤退するとしている。プルサーマル、高速増殖炉など、核燃料サイクル政策は中止するとしている。
在日米軍
* 日本共産党は、「米軍再編」の名で「日本防衛」とは無縁の海外遠征-"殴り込み"部隊の司令部機能や機動性が強化されようとしていると主張している。
* 沖縄県名護市の辺野古に巨大な米軍新基地を建設する方針の撤回、普天間基地の無条件撤去を強くもとめるとしている。
* アメリカ領土内(グアム)の米軍基地建設費を日本国民が負担するのは、国際的にも歴史的にも例がなく、まったく道理がないとしている。
* 日本共産党は、基地強化・永久化に反対し、基地のない平和な日本をめざして国民とともにたたかうとしている。
* 日米地位協定を抜本改定し、主権国にあるまじき米軍優遇の特権をなくすために力をつくすとしている。
国会
(1)選挙制度
* 小選挙区制を廃止し、比例代表制を中心とした選挙制度を実現するとしている。
(2)議員定数
* 国会議員の削減をやめ、「一票の格差」是正を実現するとしている。
(3)「国会改革」
* 議会制民主主義の形がい化をもたらす「国会改革」に反対するとしている。
永住外国人の地方参政権付与問題への立場
日本共産党は永住外国人に対する外国人参政権付与問題について、選挙権だけでなく被選挙権も与えるべきであると、地方参政権を付与すべきとの積極的な立場を表明している。2009年の在日本大韓民国民団中央本部主催の新年会において志位委員長は、「日本共産党は永住外国人に選挙権だけでなく、被選挙権も付与する立場でがんばっています。」と党の方針を表明した。但し、国政についての参政権付与については「国家主権に反する」として反対している。
領土問題に対して
北方領土問題
日本共産党は北方領土問題では、北方4島だけではなく、得撫島や占守島を含む千島列島全島の返還をロシアに求めている。理由は、南千島(北方領土)に関しては、1855年に結ばれた日魯通好条約により、北千島に関しては1875年に結ばれた樺太・千島交換条約によって「平和的な領土交渉」が行われた結果、千島列島全島が日本に帰属したと同党は認識しているからである。また日本国との平和条約の第2条(c)にもとづいて日本政府が千島列島の権利を放棄したことに対しては、戦後処理に問題があったとして、誤りを正すべきだとしている。一方樺太(サハリン)は南北ともにロシア領であると主張している。なお千島列島全島の領土権を主張しているのは日本の主要政党では日本共産党のみである。
竹島問題
尖閣諸島問題
党員
18歳以上の日本国民で、党の綱領と規約を認める人は、2人の党員の推薦を受け、支部の決定と地区委員会の承認を経て、党員になることができる。「入党費」は300円である。
党規約6条により、いちじるしく反社会的で、党への信頼をそこなう人の入党は認めていない。
規約7条により、他党に所属しつつ入党(重党籍)することはできない。他党の元党員が入党することは可能である。他党の元党員が入党する場合は通常の入党手続き(地区委員会の承認)とは異なり、都道府県委員会または中央委員会の承認を受ける。
党員は基本的には支部に所属して活動する(支部については後述)。党費は「実収入(収入から直接税を引いたもの)の1パーセント」(党規約46条)、失業中または著しく生活に困窮していると認められる党員については減免を行うことができる。
『しんぶん赤旗』を「読む」ことは規約上の義務ではないが、「4つの大切」の一つとして重視される努力目標である。しんぶん赤旗#日本共産党員としんぶん赤旗も参照。
離党と賞罰
党規約10条で、党員は自らの意思をもって離党できるとされている。ただしその際、規律違反行為が認められる場合には処分の決定が優先される。
党規約48条には「党員が規約とその精神に反し、党と国民の利益を著しく損なうときは規律違反として処分される」とある。処分には、警告、権利(部分または全面)停止、機関からの罷免、除名がある。また、規律違反による処分とは異なるが党規約11条には「党員の資格を明白に失った党員、あるいは著しく反社会的な行為によって、党への信頼を損なった党員は、慎重に調査、審査の上、除籍することができる」とも規定されている。除名#戦後の日本共産党における著名人および古参活動家の除名、除籍も参照。
同じ党規約10条の後段には「一年以上党活動に加わらず、かつ一年以上党費を納めない党員で、その後も党組織が努力を尽くしたにもかかわらず、党員として活動する意思がない場合は、本人と協議した上で、離党の手続きを取ることができる。本人との協議は、党組織の努力にもかかわらず不可能な場合に限り、行わなくてもよい」とされている。10条該当党員も参照。
日本共産党には「永年党員」(党歴30年以上)、「50年党員」(党歴50年以上)と言った党籍長期継続表彰制度がある。
地方組織
thumb|right|250px|京都府党組織による活動
thumb|right|250px|八王子地区委員会事務所
職場、居住地域、学園などに、3人以上の党員で「支部」を形成(労働運動、女性運動などの専従者・役員は支部の代わりに「グループ」を形成)。かつて「支部」は「細胞」と呼ばれていた。支部は「党の基礎組織」とされ、支部 - 地区 - 都道府県 - 中央 の形で縦割りに組織している。各級は党会議あるいは総会により、指導機関である「委員会」(支部は「支部長」の場合もある)を選出する。
* 「支部」は、企業・団体内につくられるもの(職場支部、労組グループ、婦人運動グループなど)から、市町村などの区域内をいくつかにわけた各地単位(地域支部、居住支部)、大学などに通う学生単位(学園支部)、更には階層ごとに組織されるもの(青年支部、複数の学校にまたがる学生支部など)など、様々な形態で存在する。居住地域の「支部」は、他の政党には見られないきめ細かさで、都市部では比較的身近に存在し、議員主体の政党でない同党の特徴と言える。
* 「地区」は、東京都23区では特別区単位で存在し、人口と党員の少ない地域では、県を2 - 3つにわけた程度の広範囲の名称を冠する「地区」も存在する。
* 多くの党員を抱える職場・学園、一つの市町村区域内に2つ以上の支部がある場合、地方議員を抱える場合などに補助機関として「○○市委員会」などが組織されている(党規約[日本共産党規約(2000年11月24日改定)]など)。
現在の日本共産党規約では、「地方的な性質の問題については、その地方の実情に応じて、都道府県機関と地区機関で自治的に処理する。」とし、民主集中制でありながら、一定の党内自治権を謳っている。しかし、各委員会の委員は党内選挙で選ばれるが、小選挙区制以上に多数代表色の強い大選挙区完全連記制を採用しているため、上級機関の意にそぐわぬ委員は選出されにくくなっている。
後援会
1980年代から議員個人の後援会はつくらないことにされており、すべて党後援会となっている。党支部に対応する「単位後援会」と、各階層・大衆運動ごとにつくられるものの2種類に大別され、「日本共産党後援会全国連絡会」「日本共産党・全国業者後援会」「日本共産党全国女性後援会」「日本共産党全国農業・農民後援会」の4つの全国組織がある。個人後援会がないため、議員は個人の支持基盤がなく、離党・除名・除籍で無所属立候補しても当選することが困難であるが、わずかながら無所属当選した者も存在する。
社会科学研究所
党中央委員会付属の理論研究機関。所長は、前議長の不破哲三。
日本共産党の事務所・施設は、本部、伊豆学習会館、都道府県委員会事務所、地区委員会事務所の党機関事務所と、衆議院議員ブロック事務所、参議院議員都府県事務所がある。他に補助機関(市委員会)の事務所や党地方議員(議員団)の事務所が存在する場合がある。選挙事務所は別の場合が多い。なおしんぶん赤旗の編集局と支局は党事務所とは別に存在する。
本部
本部ビルは代々木駅・北参道駅に近い東京都渋谷区千駄ヶ谷四丁目のJR中央本線沿いにある。地上8階・地下2階の「2期棟」(2005年2月1日竣工)と、地上11階・地下1階の「1期棟」(2002年完成)で構成され、延べ床面積は約16000m²で、延べ床面積では日本の政党本部ビルで最大規模である。総工費は85億円で、多くは党員・支持者からの寄付や無利子借入金による。
「日本共産党中央委員会」を掲げ、中央委員会の諸機関が入居しており、中央委員会総会などが開催できる500人収容可能の「大会議室」を有する。一方で、党大会は収容人数の問題から本部ビルでは行わず、またしんぶん赤旗編集局は向かいの別のビルに入居している。
この他エントランスホールは8時から20時まで自由に出入りできるようにするなど、一部が一般に開放されている点が特徴。本部見学も行われている。
伊豆学習会館
静岡県熱海市上多賀の伊豆多賀駅西方約2kmの山中にある。科学的社会主義や公式党史などを学ぶ「党学校」などが開かれる他、党大会が付属大講堂で開催される。この場所は、江戸城築城の際に石を切り出したところであるという。
地方
都道府県委員会、地区委員会は事務所を有しており、場所を公開し、勤務員が常勤している。地区委員会の事務所は概ね一般的な民家・小商店くらいの建物規模或いはオフィスビルの一フロア程度の規模が多く、ほとんどはしんぶん赤旗の新聞販売店(配達拠点・管理)の機能を併せ持っている。県庁所在地の場合、県委員会と地区委員会の事務所が同じ建物内にある場合もある。
中央
thumb|240px|right|しんぶん赤旗編集局が入居するASビルは、党本部ビルのJR中央本線を挟んだ向かい側にある(東京都渋谷区千駄ヶ谷五丁目)
日本共産党は多くの中央機関紙誌を発行しており、だれでも購読する事ができる。
中央機関紙として日刊の『しんぶん赤旗』(ブランケット判)と週刊の『しんぶん赤旗日曜版』(タブロイド判)を発行している。
『前衛』、『女性のひろば』、『議会と自治体』、『月刊学習』などの月刊誌を発行している。これら雑誌は、日本国内一般書店での取扱が可能である。。
地方
都道府県委員会等の地方指導機関が発行する地方機関紙がある。『○○民報』(○○には当該地名が入る)という名称が非常に多い。中には党関連の別組織が発行している例(『京都民報』、『大阪民主新報』)もある。その他、地方議会議員(団)が発行する広報紙がある。
普及協力
新日本出版社の発行する月刊『経済』の普及(宣伝)に協力しており、党の事務所では販売や定期購読の申し込みを受け付けている。
また、日本民主青年同盟の発行する『民主青年新聞』(週刊)『われら高校生』(月2刊)の購読の仲介もしている。
結党
1922年7月15日、堺利彦、山川均、荒畑寒村らを中心に日本共産党が設立(9月創立説もある)され、一般には「第一次日本共産党」と称されている。設立時の幹部には野坂参三、徳田球一、佐野学、鍋山貞親、赤松克麿らがいる。コミンテルンで活動していた片山潜の援助も結成をうながした。
11月にはコミンテルンに加盟し、コミンテルン日本支部・日本共産党となった。この時、コミンテルンから「日本共産党綱領草案」が示されたが、日本での議論がまとまらず、結局草案のまま終わった。
「綱領草案」は、政治面で、君主制の廃止、貴族院の廃止、18歳以上のすべての男女の普通選挙権、団結・出版・集会・ストライキの自由、当時の軍隊・警察・憲兵・秘密警察の廃止などを求めていた。経済面では、8時間労働制の実施、失業保険をふくむ社会保障の充実、最低賃金制の実施、大土地所有の没収と小作地の耕作農民への引き渡し、累進所得税などによる税制の民主化を求めた。さらに、外国にたいするあらゆる干渉の中止、朝鮮、中国、台湾、樺太からの日本軍の完全撤退を求めた。
共産党は「君主制の廃止」や「土地の農民への引きわたし」などを要求したため、創設当初から治安警察法などの治安立法により非合法活動という形を取って行動せざるを得なかった。ほかの資本主義国では既存の社会民主主義政党からの分離という形で共産党が結成され、非合法政党となったのとは違い、日本では逆に非合法政党である共産党から離脱した労農派などが、合法的な社会民主主義政党を産みだしていった。
共産党は繰り返し弾圧され、運動が困難となった。堺利彦らは解党を唱え、結果1924年に共産党はいったん解散した。堺や山川らは共産主義運動から離れ、労農派政党の結成を目指した。赤松など国家社会主義等の右翼に転向する者もいた。
その後、1925年には普通選挙法と治安維持法が制定された。この二つは後の共産党の運動に大きな影響を与えた。
再結党と戦前の活動
1926年、かつて解党に反対していた荒畑寒村が事後処理のために作った委員会(ビューロー)の手で共産党は再結党された(第二次日本共産党)。市川正一、福本和夫、佐野学、徳田球一、渡辺政之輔らが幹部となった。1927年に渡辺政之輔ら日本共産党の代表は、コミンテルンと協議して「日本問題にかんする決議」(27年テーゼ)をつくった。「27年テーゼ」は、中国侵略と戦争準備に反対する闘争を党の緊切焦眉の義務と位置づけた。その一方で、社会民主主義との闘争を強調し、ファシズムと社会民主主義を同列に置く「社会ファシズム」論を採用した。「27年テーゼ」が提起した日本の革命や資本主義の性格をめぐって労農派と論争が起こった。詳細は日本民主革命論争、日本資本主義論争を参照。
当時の党組織は、非合法の党本体と、合法政党や労働団体など諸団体に入って活動する合法部門の2つの柱を持ち、非合法の地下活動を展開しながら、労農党や労働組合などの合法活動に顔を出し活動を支えた。共産党員であった野呂栄太郎らの『日本資本主義発達史講座』などの理論活動や、小林多喜二、宮本百合子らのプロレタリア文学は社会に多大な影響を与えた。
1927年の第16回衆議院議員総選挙では徳田球一、山本懸蔵をはじめとする何人かの党員が労農党から立候補し、選挙戦のなかで「日本共産党」を名乗る印刷物を発行した。総選挙では労働農民党京都府連合会委員長の山本宣治が当選した。彼は非公式にではあるが共産党の推薦を受けており、初めての「日本共産党系の国会議員」が誕生した。しかし、1928年の三・一五事件で治安維持法により1600人にのぼる党員と支持者が一斉検挙され、1929年の四・一六事件と引き続く弾圧で約1000人が検挙されて、共産党は多数の活動家を失った。また同年、山本宣治は右翼団体構成員に刺殺された。
相次ぐ弾圧で幹部を失うなかで田中清玄らが指導部に入った。田中らは革命近しと判断して、1929年半ばから1930年にかけて川崎武装メーデー事件、東京市電争議における労組幹部宅襲撃や車庫の放火未遂などの暴発事件を起こした。
1931年4月、コミンテルンより「31年政治テーゼ草案」が出された。この草案は当面する日本革命の課題を社会主義革命としていた。
このころには、戦争反対の活動に力をいれ、1931年8月1日の反戦デーにおいて非合法集会・デモ行進を組織した。1931年9月に発生した満州事変に際しては「奉天ならびに一切の占領地から、即時軍隊を撤退せよ」「帝国主義日本と中国反動の一切の軍事行動に反対せよ」とする声明を出した。1932年には軍艦や兵営の中にも党組織をつくり、「兵士の友」や「聳ゆるマスト」などの陸海軍兵士にむけたパンフレットを発行した。
1932年5月、コミンテルンにて32年テーゼが決定され、戦前における活動方針が決定された。このテーゼは日本の支配構造を、絶対主義的天皇制を主柱とし、地主的土地所有と独占資本主義という3つの要素の結合と規定した。ブルジョア民主主義革命を通じて社会主義革命に至るとする二段階革命論の革命路線を確立した。民主主義革命の主要任務を、天皇制の打倒、寄生的土地所有の廃止、7時間労働制の実現と規定し、中心的スローガンを「帝国主義戦争および警察的天皇制反対の、米と土地と自由のため、労働者農民の政府のための人民革命」とした。
田中サガヨ、伊藤千代子など少なくない女性党員が、侵略戦争に反対し、弾圧や拷問に抗してたたかい、24歳などの若さで命を失った。
1932年5月、全協の活動家であった松原がスパイとしてリンチされ、赤旗に除名公告が掲載された。8月15日には朝鮮人活動家の尹基協がスパイ容疑で射殺された。松原も尹も、スパイ容疑は濡れ衣というのが有力である。立花隆は、スパイMを通じて共産党の中枢を掌握した当局が、全協をもコントロール下に置こうとして仕組んだ事件と推測している。この頃から党内部でのスパイ狩りが始まり出した。
10月に熱海で全国代表者会議が極秘裏に招集されたが、当局により参加者らが逮捕された(熱海事件)。同月、赤色ギャング事件が発生している。松本清張は『昭和史発掘』の中で、これら共産党へのマイナスイメージとなる事件は当局が潜入させた「スパイM」が主導したとしている。共産党も同じ見解であり、特高警察が、共産党を壊滅させるための戦略として、共産党内部に協力者をつくり出して工作を行わせたとしている。警察の工作員や協力者が共産党の幹部になり、彼らの働きで暴力的事件を起こさせ、共産党の社会的信用を失墜させることにより、後継の加入を阻止する壊滅作戦を図ったとされている。実際にスパイであったことを公判で自白して、治安維持法違反の容疑を否定したものもいた。
さらに1933年6月12日、委員長であった佐野学、幹部の鍋山貞親が獄中から転向声明を出した(共同被告同志に告ぐる書)。こうした一連の事件によって、獄中でも党員に動揺が走り大量転向が起きた。書記長であった田中清玄の転向・離党もこの時期である。闘争方針の中心に「スパイ・挑発者の党からの追放」が据えられ、党内の疑心暗鬼は深まり、結束は大いに乱れた。
12月、中央委員である宮本顕治らがスパイとして同じ中央委員の小畑達夫と大泉兼蔵を監禁し、小畑が死亡する事件が発生した。宮本らを始めとする活動家は逮捕され、また世間にも事件は大きく報道された。日本共産党スパイ査問事件も参照。
党内の動揺はいよいよ激しくなり、1935年3月に獄外で活動していたただひとりの中央委員であった袴田里見の検挙によって中央部が壊滅、統一的な運動は不可能になった。
戦時下の活動
1936年のフランスやスペインで「人民戦線」とよばれる統一戦線政府が成立し、コミンテルン第7回大会(1935年)が人民戦線戦術を決議すると、野坂参三らは「日本の共産主義者へのてがみ」を発表して日本における人民戦線運動を呼び掛けたが、党組織は壊滅しており現実の運動とはならなかった。
日中戦争に際しては、戦争反対とともに、出征兵士の家族の生活保障や国防献金徴収反対などの「生活闘争」との結合を企図した。
その後も、関西には同党の再建をめざす運動や、個々の党員による活動は存在したが、いずれも当局によって弾圧された1937年12月から1938年にかけて労農派に治安維持法が適用され、930人が検挙された(人民戦線事件)。また、国外に亡命していた野坂参三は、延安で日本軍捕虜の教育活動をして、戦後の運動再建に備えていた。また宮本顕治は、裁判の中で日本において共産党の活動が生まれるのは必然的なものだと主張するなど、法廷や裁判で獄中闘争を続けていた。
終戦と合法化
thumb|240px|釈放された党幹部
1945年8月15日の第二次世界大戦の終戦後、日本共産党は徳田球一を書記長として合法政党として再建された(戦前の共産党(第二次共産党)との断絶を重視する立場(加藤哲郎など)からは、これ以降の共産党を「戦後共産党」(第三次共産党)と称することもある)。出獄した幹部は、釈放を喜び、はじめのうち連合国軍を「解放軍」と規定した(現在は否定している)。1946年の第22回総選挙では5議席を獲得し、初めて帝国議会に議席を得た。
独自の憲法草案として、日本国憲法の制定前の時期に「日本人民共和国憲法草案」を発表。日本国憲法制定時の採決では、「天皇制の存続による民主化の不徹底」や内閣総理大臣吉田茂の「自衛戦争の否定」発言などを理由に、反対票を投じている。
連合軍に解放された党は、急激にその勢力を増していった。各地域や職場・学校では党員による細胞(現在の「支部」)が組織され、学生運動や労働運動を活発に展開した。1947年には、階級闘争の高揚の中で「吉田内閣打倒」を掲げる二・一ゼネストと呼ばれる大規模なゼネラル・ストライキが計画されていたが、前日のダグラス・マッカーサーの中止命令を受け全官公庁共同闘争委員会の伊井弥四郎議長が同日夜、ゼネラル・ストライキ中止指令をラジオ放送を通じて発し、これによって二・一ストは敗北し、戦後の労働運動の大きなつまずきとなった。
日本国憲法施行により実施された一連の選挙、第23回衆議院議員総選挙・第1回参議院議員通常選挙・第1回統一地方選挙では、天皇制廃止や食糧・炭鉱の人民管理などを主張する共産党は急進的すぎると見られ、党の思惑通りの議席数は得られなかったが、統一地方選挙では青森県新城村(現・青森市新城地区)をはじめ、全国11の自治体で共産党員首長が誕生した。その後も国民の生活困窮を背景に活発な大衆運動を続けた事で党勢を拡大し、片山・芦田内閣の迷走で社会党に失望した有権者層の一部を吸収したために、1949年の第24回総選挙では従来の約9倍にあたる35議席を獲得した。特に東京都区内の7選挙区全てで当選者を出すなど、大都市部やその周辺だけでなく、農民運動のさかんだった鳥取県全県区や山梨県全県区など、ほかにも新潟や石川など、東北・四国地方以外のすべての地域で当選者をだした。
1950年問題(分裂、武装闘争方針)
平和革命論批判と分裂
アメリカ合衆国による日本占領が続く中、1948年の朝鮮半島で分断国家である大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の成立、1945年の中国での国共内戦に勝利した中国共産党による中華人民共和国の成立などで、東アジアの緊張が高まった。
1950年1月6日、ヨシフ・スターリンが指導するコミンフォルムは、機関紙で論文「日本の情勢について」を掲載し、当時の日本共産党の野坂参三らの「占領下での革命」論(平和革命論)を批判した。これに対して徳田球一らは論文「“日本の情勢について”に関する所感」を発表して反論した(このため後に所感派と呼ばれた)。しかし中国共産党も人民日報で日本共産党を批判すると、第18回拡大中央委員会で宮本顕治らはスターリンや毛沢東による国際批判の受け入れを表明して、主流派の徳田らと平和革命論を批判した(このため後に国際派と呼ばれた。不破哲三は後に、当時はアメリカ占領軍撤退が優先されるべきと思ったと発言している[日本共産党創立78周年記念講演会 - 日本共産党の歴史と綱領を語る - 幹部会委員長 不破哲三 (2000年7月20日)])。また1950年2月には徳田要請問題が発生し、徳田が証人喚問される事態になった。
1950年5月には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のダグラス・マッカーサーが、共産主義陣営による日本侵略の恐れを警告し、それに協力しているとして日本共産党の非合法化を検討しているとの声明を出した。直後に日本共産党と占領軍の間の大規模な衝突である人民広場事件が発生し、6月にはマッカーサーは共産党の国会議員など24人の公職追放・政治活動の禁止(レッドパージ)を指令した。レッドパージを受けた徳田球一や野坂参三らは、中央委員会を解体して非合法活動に移行し、中国に亡命して「北京機関」とよばれる機関を設立し、日本には徳田らが指名した臨時中央指導部が残った(これらを後の日本共産党指導部は「一種の「クーデター的な手法」による党中央の解体」と呼び批判している。)6月25日には朝鮮戦争が勃発した。
コミンフォルム論評への対応に加えレッドパージによる弾圧もあり、日本共産党は、主流派である徳田らの所感派と、宮本顕治ら国際派、春日庄次郎、野田弥三郎ら日本共産党国際主義者団、福本和夫ら統一協議会、中西功ら団結派など大小数派に分裂した。
「統一回復」と武装闘争路線
1951年2月23日に主流派は第4回全国協議会(四全協)を開き、反米武装闘争の方針を決定し、中国共産党の抗日戦術を模倣した、全国の農村地帯への「解放区」の組織化を指示した。非主流派の国際派はこれを批判し中央委員会の機能回復を主張した。1951年8月10日、国際派を分派と批判して党中央への復帰を指示する「四全協、分派に関する決議」がコミンフォルム機関紙に掲載され、モスクワ放送がこれを放送した。国際派は元々スターリンなどの国際的権威を背景に所感派を批判していた事もあり、コミンフォルムが所感派を支持した事の衝撃は大きく離脱者が相次ぎ、10月上旬に宮本は「党の団結のために」で自己批判し、「われわれの組織」(全国統一会議)を解散すると明記して、不破哲三らとともに党に復帰承認された。なお当時の共産主義運動は国際的に一つに結束しており、コミンフォルムから分派と認定されると共産党としての正統性を失う状況にあった。
国際派などの復党後、1951年10月16日に、所感派と「臨中」は第5回全国協議会(五全協)を開いて「統一回復」を宣言し、「日本共産党の当面の要求」(当時、「51年綱領」と呼ばれた)を採択した。ただし、直近の第6回党大会で選出された本来の中央委員会は開催されず、1952年から1955年までの3年間は所感派・「臨時中央指導部」が党活動のすべてを指導した。この「51年綱領」は「農村部でのゲリラ戦」を規定した中国革命方式の「軍事方針」であった。これに従い「山村工作隊」や「中核自衛隊」などの武装組織を建設し、武装闘争の戦略を記した「球根栽培法」や、武器製造法を記載した「栄養分析法」等を密かに発刊し、全国各地で「火焔瓶闘争」を繰り広げ、米軍基地、警察署、裁判所などの襲撃も行われた。1951年12月26日には複数の共産党員が共謀して警官を道路に誘い出して殺害し、拳銃を奪った印藤巡査殺害事件(練馬事件)が発生した(1953年に東京地裁で、傷害致死罪で主犯は懲役5年、他8名に有罪判決)。また、冤罪とされる1952年1月の白鳥警部殺害事件や、5月の血のメーデー事件、6月の吹田・枚方事件、警察による謀略とされる菅生事件などが発生した。
これらの武装闘争路線は国民の支持を得られず、多数の離党者を生む結果となった。1952年に行われた第25回総選挙では公認候補が全員落選するなど、著しい党勢の衰退を招くことになった。1952年、政府は破壊活動防止法(破防法)を制定し、日本共産党は同法の「調査対象団体」に指定された。
武装闘争路線の放棄とその影響
1951年9月に日本はサンフランシスコ講和条約を結んで独立を回復した。所感派中心の北京機関は、地下放送の自由日本放送で武装闘争を指示したが、内部でも徳田球一と野坂参三の対立が発生した。1953年に徳田球一が北京で死亡した。また朝鮮戦争が1953年に休戦した。
1955年7月、日本共産党は第6回全国協議会(六全協)を開き、従来の中国革命方式の武装闘争路線の放棄を決議した。これは「暴力革命」の全否定ではなく、敵の出方論により「内外の反動勢力が非平和的な手段に訴えない限り、政治暴力は行使しない」という条件付の武装闘争停止であった。またこの大会で志賀義雄、宮本顕治らの旧国際派が主導権を握った。宮本らは再統一を優先して個々の党員の行為は不問とする方針を示し、旧所感派の野坂参三を第一書記として「再統一」を宣言した。
更に1958年の第7回党大会では宮本顕治が書記長(後に委員長)となり、以後は旧国際派が主流派、旧所感派が非主流派となった。この第7回党大会と1961年の第8回党大会で、1950年から1955年までの分裂と混乱を「五〇年問題」(50年問題)や「五〇年分裂」(50年分裂)と呼び、その「軍事路線」はソ連・中国の大国による干渉と「徳田、野坂分派」の「政治的クーデター」による、暴力革命が可能という政治情勢が無いにもかかわらず武装闘争を行った極左冒険主義であると規定して批判した。これらは以後、外国の干渉は受けないとの自主独立路線の始まりとなった。
以後の日本共産党執行部は、2011年現在でも、この「五〇年問題」の期間に行われた五全協、六全協での「再統一」宣言や「軍事方針」である「51年綱領」の決議、「北京機関」からの指示、それらに従って行われた武装闘争などは全て、「徳田、野坂分派」が党中央を無視して勝手に行ったもので、無効であり、従って「日本共産党の大会とも中央委員会とも何の関係もありません」、「日本共産党の正規の機関が武装闘争や暴力革命などの方針を決めたことは一度もない」と主張している。
この日本共産党の武装闘争路線と、突然の路線変更は各方面に大きな影響を与えた。党の方針と信じて武装闘争に参加していた党員は、党とは無関係に勝手に不法行為を行った形になり、一部は「党中央に裏切られた」と不信感を持ち、後に日本共産党への「スターリン主義」批判や新左翼運動にもつながった。また、以前の「平和革命」の支持者や、マルクス・レーニン主義の暴力革命の原則を支持する一部の知識人や共産主義者、武装闘争に批判的な大多数の国民のそれぞれから、不信感や警戒心を持たれた。
公安警察と公安調査庁は、日本共産党は「敵の出方論」や暴力革命を実際には放棄していないとみて、現在でも「調査活動」が続けている。1986年には日本共産党幹部宅盗聴事件が発覚した。日本共産党はこれらの不法行為によるスパイ行為を批判している。また警察庁の『警察白書』では、現在も共産党を調査対象団体とし、数ページを割いて動静を追跡しているが、これは国会に議席を持つ政党に対しては唯一の扱いである。警察学校の「初任科教養」でも、党の綱領や決定について批判的な講義がされている。一方、破壊活動防止法に基づく調査活動を行っている公安調査庁では、現在では公然情報の整理と分析に留まっているが、時々職員によるスパイ工作が発覚し、党組織や日本国民救援会などの人権団体を通じて抗議活動が行なわれている。共産党が武装路線を放棄した後も1960年代半ばまで、朝日新聞などの全国紙では、政党担当記者が共産党を取材して記事を書くのではなく、警察担当記者が公安情報を元に記事を書くという不正常な状況が続いた。そういうマスメディアに共産党側は「新聞は権力の手先」と反発していたという。
「自主独立」路線の推進
1958年の第7回党大会以降は、不破哲三や上田耕一郎などの「改革派」が党中央の要職に就任し、「自由と民主主義の宣言」や「宗教についての日本共産党の見解と態度」(宗教決議)、マルクス・レーニン主義を「科学的社会主義」と呼び変え、「プロレタリア独裁」や「前衛党」などの用語の綱領からの削除などを進めた。これらは当時のヨーロッパでのユーロコミュニズムの主張と類似点があり、上田耕一郎などはユーロ・ジャポ・コミュニズムなどと発言し、欧州諸党との親和性を強調した。これはソ連に主導された国際共産主義運動の動向・意向に敏感に従っていたそれまでの党のあり方と異なる点で、以後の日本共産党の特徴となった。
なお、宗教に融和的な「宗教についての日本共産党の見解と態度」は、党内からの反発があり、党員の宗教学者が除名された。また大武礼一郎は第7回党大会の代議員として出席したが、第7回大会の方針は日和見主義であるとして党を離れ、「日本マルクス・レーニン主義運動」を通じて日本共産党(行動派)(下部組織に日本人民戦線)を結成した。
自主独立路線の確立
中ソに盲従することで党組織に壊滅的な打撃を受けた経験から、同党は「自主独立の重大性を認識させる契機」(同党第20回大会報告)となったという。しかし、同党が「ソ連などの覇権主義にたいする認識は、はじめから全面的であったわけではありません」(同)とのべているように、50年問題解決後も、ソ連のユーゴスラビア非難への同調、ソ連のハンガリー侵攻への支持をした。ハンガリー事件を契機に、学生などが共産党の影響をはなれ、全日本学生自治会総連合などにいた学生党員を中心に日本共産党に反対する共産主義グループがつくられていった。
合法活動路線への転換や1956年のスターリン批判を経て、元党員のトロツキー主義者らは日本トロツキスト聯盟(後の革命的共産主義者同盟)を結成、全日本学生自治会総連合の一部活動家らは共産主義者同盟を結成した。1960年の安保闘争では強硬な運動を主張する全学連指導部を一時簒奪した勢力が日本共産党を主要な打倒対象として激しく対立。共産党は彼らをまとめて「トロツキスト」と非難した(必ずしも批判された側すべてが「トロツキスト」であったわけではない)。
1961年には綱領草案を巡る論争の中から日本独占資本を主敵とし、当面する革命を社会主義革命とする「一つの敵」論を主張する春日庄次郎、山田六左衛門ら構造改革派が離脱し、その中の一派共産主義労働者党を結成。春日らは、宮本の専横的な党運営を批判し、「一時離党」するとして「日本共産党万歳!」と声明したが、党は離党届を受け付けず除名処分とした。
1964年には中・ソ対立の中で党の「中国共産党寄り路線に反対する」とし、国会での部分的核実験停止条約批准に党の決定に反して賛成票を投じた衆議院議員の志賀義雄や、参議院議員の鈴木市蔵ら親ソ連派が除名され、「日本共産党(日本のこえ)」を結成。文化人では、中野重治・野間宏らがこの時志賀鈴木らに同調して党に離反している。ソ連は志賀グループを公然と支持し、日ソ両党は激しい論争となった。
この時期、日本共産党員は競って中国語を習い、自分の名前を中国語読みし、「北京周報」を読むなど中国共産党への支持が強まっていった。
4.17ゼネスト問題で、スト破り的行為をとった日本共産党は、その後の自己批判にもかかわらず総評からの支持も失い、新左翼諸党派から厳しく非難された。この問題の真相は不明であるが、当時日中国交正常化を目指していた中国共産党が池田内閣を窮地に陥らせないために日本共産党に指令したという説がある。
また、1966年、「文化大革命」発生と同時期に中国共産党と中国政府から日本共産党へ「修正主義」との批判が加えられ、ここでも激しい論争となった。世界各国の共産党でも同じような現象がおきたが中国文革に同調し毛沢東を個人崇拝するグループが各地でつくられ、山口県委員会などは一時中国派の中心になった。「共産党は一九六六年に、従来の非妥協的親中共路線とたもとをわかち、“現代修正主義”〔ソ連〕と“左派教条主義”〔中国〕との断絶ははっきりし、両派はこのうえない痛烈な表現で直接お互いに指導者に攻撃を加えた。八月には最後に残った二人の日本共産党代表が北京を離れたが、出発のさい紅衛兵に激しく殴打された」(アメリカ国務省情報調査局年次報告1968年版)。この過程で西沢隆二、安斎庫治、原田長司、大隈鉄二、福田正義ら親中共派が党規約にそむいたかどで除名された。その後「日本労働党」、「日本共産党(左派)」、「日本共産党(マルクス・レーニン主義)」(後の労働者共産党)、「日本共産党(解放戦線)」、「日本労働者党」などを結成した。
国民の支持を仰ぎ議会多数を得ての革命路線への転換以後のこれらの党内闘争において、コミンテルン支部時代に掲げていたプロレタリア国際主義理念などを、日本共産党を飛び出した側が総じて掲げていた。しかし、実質的には武装闘争路線への回帰や外国の政権党の指導を受け入れることを路線として掲げていたもので、とりわけ中国からの日本共産党内部への干渉、多数派工作とその破綻と見ることができる。
こうして、ソ連と中国との激烈な論争で大量の除名や分派を生み出しながら、同党は1960年代半ばごろに「自主独立」路線を確立し、むしろ50年以来傷ついた威信と党勢力を70年代前半にかけて長期的に回復・拡大していった。以後、ソ連によるチェコスロバキア侵略・アフガニスタン侵略、中国によるベトナム侵攻を批判した。また、カンボジアのポル・ポト政権、北朝鮮指導部(朝鮮労働党)によるとされる大韓航空機爆破事件・ラングーン事件・日本漁船銃撃事件などにも厳しい態度をとり、「共産党イコール既存社会主義国の手先」というコミンテルン以来のイメージとはまったく違った国際問題での対応をとることになる。
1968年の「プラハの春」に際して、日本共産党はソビエト連邦共産党を明確に批判した。一方でソ連派が党内に潜伏していたと見られ、ソ連崩壊後、ソ連共産党内部文書の公開が始まると日本共産党は独自調査団を派遣したが、明らかになった事実をもとに野坂参三はソ連内通者として除名された。
日本共産党は、こうした自党からの分派は勿論、新左翼の共産同・ブントや革共同中核派、革共同革マル派、革労協、社会主義労働者党(社労党)などの政治団体・運動を1980年頃までは「トロツキスト暴力集団」、それ以降は「ニセ「左翼」暴力集団」と呼んで非難し、政治などの問題で共闘を拒絶し、排斥した(党派闘争参照)。大学では、日本共産党・民青はこれらの党派と厳しく対立し、暴力的な衝突も繰り返された。1971年6月19日、琉球大学の男子寮で民青と革マル派が衝突した際、革マル派の町田宗秀が寮の4階から転落して死亡した。
1972年には中央委員で青年学生対策部長であった広谷俊二と日本民主青年同盟(民青同盟)幹部であった川上徹を結節点とするいわゆる「新日和見主義事件」が発生した。民青同盟の党組織、全学連内の党組織に結成された共産党中央の「人民的議会主義」を修正主義として反対するインフォーマル組織であった。「ジャパンプレスサービス」グループ、平和運動グループ、婦人運動グループなどにも波及した。高野孟・山川暁夫などが処分され、全学連の早乙女・松尾なども第一線から身を引いた。あまりに広範囲にこの分派組織が広がったため油井喜夫ら無実の処分者もいたという。またこの分派組織の摘発・査問にかかわって無実の党員の弾圧に加わった側に、警察のスパイとして民青同盟に潜入していた別の分派組織があったことが数年後に発覚している。新日和見主義分派は摘発されたほとんどの党員が反省の態度をとったことで除名者の数は少なく、公然とした反発による離党者も当時はほとんどいない党内問題であった。が、そのために面従腹背で(党会議で党路線に異論を公然と唱えることはせず自己の秘密分派を温存させ続けた)党内に残った川上徹らが分派組織を温存し25年後の1997年になって著書発行を期に市民的感覚に訴える『査問』キャンペーンを開始し、10年間ほどこの攻撃は続いた。
さらに、1976年に「自由と民主主義の宣言」という準綱領文書を採択し、ここでソ連モデルとは違う社会主義像を提起した。この流れは「ユーロ・ニッポコミュニズム」(欧州(西欧)的・日本的な共産主義)と言われた。
1970年代後半から1990年代前半に掛けて名古屋大学教授田口富久治などのネオ・マルクス主義学者党員が除籍された。
ただし、ソ連を覇権主義と批判しつつもその解体にいたるまで「社会主義の生成期」がソ連社会であるとして、ソ連を社会主義社会として規定しつづけた。だが、1994年の第20回党大会で、「社会主義の生成期」とは「過渡期社会」を意味するものであったという再意義づけがなされた。また、核兵器問題など外交問題をはじめとする諸問題で、ソ連やルーマニアの指導者と共同声明を出したこともあった。特に、「宮本顕治同志とニコラエ・チャウシェスク同志の共同宣言」は、党内外からきびしい批判にさらされることとなった。
こうして、日本共産党を離れた人が結成したグループからの日本共産党への集団的な「復党」の動きは見られない(個人はある)。民主統一同盟や元第四インターナショナル・中核派活動家村岡到の個人党派「政治グループ稲妻」など、元は「日本共産党打倒」を掲げていた勢力が、共産党の側の新左翼への譲歩を前提として日本共産党との共闘を呼びかけた動きや、第四インター各グループが「よりまし」として選挙で共産党への投票を呼びかける動きもあるが、共産党側は「反省も無しに共闘には応じられない」と拒否している。もっとも1990年代以降、日米安保新ガイドライン改定反対、有事法制反対、憲法改正反対などの運動で、両者が集会を共にする機会は増えている。
スターリン支配のコミンテルンの「各国運動の自主独立」を標榜した解散から、戦後の「諸国共産党連絡調整機関」を標榜したコミンフォルムの実態、そしてコミンフォルム解散後も、政権党であったソ連共産党ならびに中国共産党が、各国の共産党を金銭的援助とともに「指導」する傾向が続いたにもかかわらず、日本共産党が資金援助を受けず、未だ政権党ではない中で、自主独立の立場を鮮明に出来たのは民主集中制の堅持と、戦前からの日本のマルクス主義研究の独自の伝統と、機関紙発行中心の近代議会主義にマッチした財政活動の確立が決定的なものであったと党は主張している。
「55年体制」下
1955年頃から宮本顕治が事実上の指導者になり、1960年代半ばには党の指導者と実務面の指導者を二重にして継承する体制を確立、不破哲三に実務面を継承させた(議長宮本、委員長不破体制)。これにより一枚岩体制が確立し、戦前から問題であった内部抗争や金銭的腐敗を一掃し、「クリーンな党のイメージ」の確立に成功する。
合法路線復帰以後は党勢を拡大し、1960年の第29回総選挙からは、原則として全選挙区に公認候補を擁立するようになった。その後1970年代初めまで得票率を伸ばし続け、1972年の第33回衆議院議員総選挙では38名の候補者が当選し、議会第3党、野党第2党に躍進する。また、同年には田代文久が特別委員会の石炭対策委員会委員長に選出され、共産党議員として初の国会委員長が誕生した。
共産党の躍進は地方自治体の首長・議会選挙にも及び、1967年に長野県塩尻市で初の党員市長(高砂政郎)が誕生したのに続き、1973年の東京都議会議員選挙では当選者数が日本社会党を上回り、1975年の統一地方選挙では大阪府知事選挙で黒田了一を共産党の単独推薦で再選させた。
1975年、文藝春秋誌上で立花隆の日本共産党の研究が連載開始される。翌年、この連載に「共産党査問リンチ事件」の裁判記録が掲載された。当時委員長であった宮本顕治と副委員長であった袴田里見が被告となったこの裁判の記事は国会でも取り上げられ、大きな話題となった。この結果、1976年の第34回総選挙では共産党の議席は17議席にまで落ち込んだ。翌年には袴田が党と宮本を批判し、除名処分となっている。しかしその後盛り返し、1979年の第35回総選挙では最高の39議席を得る。
1979年10月に林百郎が衆議院懲罰委員長に選出され、共産党議員として初の国会常任委員会委員長が誕生した。その後は自民党や産経新聞を中心とする「自由社会を守れ」キャンペーンやサンケイ新聞事件などの強烈なネガティブキャンペーンの影響で落ち込む。この当時、『小説吉田学校』を執筆した戸川猪佐武が、『小説自民党対共産党』という本を出している。「70年代は自共対決の時代」と持て囃されたこともあった。
日本社会党と日本共産党は、日本政治の中では革新陣営に属し、中道の民社党、公明党をはさんで保守の自由民主党に対峙する位置にあった。「55年体制」の成立以来、政権は一貫して自民党の手にあり、社共共闘、あるいは全野党共闘により政権交代を樹立するというのが当初の社共の方針であった。共産党は、「70年代の遅くない時期に民主連合政府を樹立する」と主張していた。
しかし、社会党内部には社共の協力より社公民の協力を重視すべきだという意見があり、これがしだいに力を持った。民公、特に強い反共主義姿勢を持つ民社の側(特に春日一幸)からの、共産排除要求もあった。これに同調したのが、社会党内の構造改革派・社公民路線派の一部が社会党左派に追われる形で独立した社会民主連合であった。共産党が勢力を伸ばすにつれて、総評系労組(特に官公労)など、各種運動団体で社共の主導権争いが激化し、それらの団体を主な支持基盤とした社会党との関係にも悪影響を及ぼした。
1979年4月、東京都知事選挙で革新統一候補の元総評議長太田薫が敗れると、社会党は公明党との関係強化(1980年1月にいわゆる〈社公合意〉を締結した)による右傾化を進め社共共闘は瓦解した(社会党側からは「共闘を通じて社会党員・支持者が共産党に流れてゆき、票と議席が減っていったことに不信感を持った」とも言われている)。1980年代には、「自民党と“共産党を除く”全野党の国会対策委員長による会談」(国対政治)が常態化して、共産党の排除が進んだ。
1980年代、日本共産党は「民主連合政府」のスローガンを事実上棚上げして、「非核の政府」という路線にきりかえた。これは、当時ソ連共産党が全世界的に展開していた「反核運動」と一定程度呼応するものであり、日本共産党とソ連共産党の一定の接近を意味した。
だが、1989年元旦の「赤旗」の宮本顕治議長のインタビューを機に、党は事実上社会主義革命を放棄し、「資本主義のもとでの民主的改革」を強調するようになった。
日本共産党は1960年代から、国政選挙では当選の可能性を度外視して全ての選挙区で候補を擁立する戦術を取っていた。社共共闘の破綻後は、地方選挙でも独自候補を積極的に擁立し、日本全国で少数派としての存在を示した。この戦術は、当選者が複数の中選挙区制では有効であった。定数1(小選挙区制)の選挙区では自民党と競り合う社会党の票を奪うことで、しばしば自民党候補の過半数以下での当選という結果をもたらした。自民党の長期支配が続く中、共産党の独自擁立も結果として自民党政権継続に有利に作用する要素として取り込まれていったと見られることもある。
その一方、地方の首長選挙で自民党と社会党が同調して、日本共産党以外全政党相乗りの候補が出現するようになると、「日本共産党の存在によって選択肢が確保され」ているとして「オール与党」批判の宣伝を行うようになった。ただ、滋賀県の武村正義、神奈川県の長洲一二、岡山県の長野士郎、世田谷区の大場啓二など、日本共産党も相乗りに加わっている候補も一部に存在した。それについては「革新首長に自民党が同調し、乗っ取っていく過程に生じた一時期のものであり、次の出馬の際には共産党は排除されていった」と主張している。事実、共産党を含む相乗りは長続きせず、後に相乗り候補対共産党候補という構図が出来上がっている。
創共協定
公明党の母体である創価学会とは、1974年12月28日、松本清張の仲介で池田大作と宮本顕治で相互不可侵・共存を約した協定を10年間の約束で結んだ。創共協定(共創協定)と呼ばれる。しかし、自民党との関係悪化を恐れた公明党の抵抗もあり、協定は翌年の公表とほぼ同時に死文化。1980年、創価学会による宮本顕治宅盗聴事件が発覚すると、両者の対立は決定的となり、協定の更新は行われなかった。その後、1980年6月、顧問弁護士・山崎正友が『週刊新潮』(平成5年10月21日号)で自らの犯行を告白。東京地方裁判所は2009年1月28日の判決で、山崎が共産党委員長宮本顕治邸盗聴事件を独断で行ったことを認定した。
部落解放同盟との対立
''部落問題も参照''
他に目立ったのが部落解放同盟との対立である。解放同盟は元々、共産党の影響力が強く、1960年代前半までは両者は友好的な関係にあったが、1965年10月8日、内閣同和対策審議会答申が出されたことが大きな転換点となった。社会党員など同盟内の他の潮流は、部落差別の存在を認め、「その早急な解決こそ、国の責務であり、同時に国民的課題である」と明記した答申の内容をおおむね肯定的に評価し、同対審答申完全実施要求国民運動を提起することで一致したのに対し、共産党や同党員である解放同盟の活動家はこの答申を「毒まんじゅう」と批判した。その結果、同盟内で急速に支持を失い、同年の第20回大会では、共産党系代議員の提出した修正案は否決、同対審答申完全実施要求国民運動の展開を骨子とした運動方針が採択され、役員選挙では共産党員である中央執行委員のほとんどが解任された。共産党はこの動きを「一部反党修正主義者、右翼社会民主主義者の幹部」による策動として強く非難した。
大会以後間もなく、京都府連の分裂が表面化、その余波で、府連書記局が設置されていた文化厚生会館の帰属をめぐり、解放同盟京都府連と部落問題研究所との間で紛争が発生した(文化厚生会館事件)。さらに同和対策事業特別措置法制定が急ピッチで進んでいた1969年2月、党農民漁民部編『今日の部落問題』を刊行し、その中で解放同盟指導部を「改良主義的、融和主義的偏向から自民党政府と安上がりの時限立法による特別措置で妥協した」と批判。同盟中央は抗議の意志を示すため、同書刊行直後に開かれた全国大会に来賓として出席した共産党議員を紹介だけにとどめ、祝辞を読ませないとする対抗措置がとられるなど、さらに関係は悪化した。同年大阪で起きた「矢田教育事件」では、当時の解放同盟や教職員組合、地方行政が取り組んでいた越境入学問題に消極的だった共産党員教員が、解放同盟大阪府連矢田支部による糾弾の対象となり、刑事事件に進展。共産党は、党組織を挙げて解放同盟と対決する姿勢を明確にし、両者の対立は決定的なものになった。同盟中央は、共産党に呼応する動きを見せた同盟員に対して除名・無期限権利停止などの処分で対抗した。こうして、1970年には部落解放同盟正常化全国連絡会議(のちの全国部落解放運動連合会、全解連)が発足した。共産党やその支持者たちはこの経緯について「本来、部落差別にたいして、大同団結して活動をすすめるべき部落解放運動に暴力や利権、組織分断を持ち込み、路線対立から親戚や親子関係の分断をはじめとした地域の人びとを二分する大きな誤りを持ち込む結果となった」と主張している。その頂点としていわれる事件が、1974年の兵庫県立八鹿高等学校における、八鹿高校事件の発生であった。
現在でも共産党・解放同盟両者の関係は極めて険悪である。共産党は、「部落解放同盟」の呼称の使用を極力避け、「「解同」」と必ず鉤括弧書きで表記している。1990年代初頭までは「朝田・松井派」と、解放同盟側を分派として糾弾する姿勢をとっていた。すなわち、「解放同盟を自称しているが、実態は利権あさりの集団に過ぎない」という党見解を反映したものである。また、共産党は「志賀義雄一派と結びついた反共勢力が指導部を占拠(「解同」朝田派)し、「部落民以外はすべて差別者」とする部落排外主義を振りかざして、反対勢力を組織から排除しました。」という認識を示している。裏返せば、共産党内の親ソ派を排除した抗争が、解放同盟に飛び火したと認識していることになる。
現在一部の自治体では、地域の街づくり会議などで、互いの陣営が同席することも見られるようになった。これらは、地域の過疎化や世代交代によって、それぞれの勢力が減少傾向にあることや、部落差別の早期解消に向けて、一致点での共同を進めようとする努力の結果だともいえる。しかし、政治戦においては、支持政党の違いによる軋轢は今なお強く残っている。特定の選挙で野党共闘が成立した場合、結果的に同一の候補を支援することがあっても、一定の距離を保ちつつ、互いに独自の支援活動をすることが多い。
ソ連解体後と現在
1991年8月のクーデター後に発表されたソ連共産党の解散に際しては、ソ連共産党の解散を「もろ手を上げて歓迎する」という宮本顕治の発言が発表された(8月31日付毎日新聞によるインタビューでの発言)。この発言の翌日、常任幹部会はこの宮本発言を受けて「大国主義・覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉を歓迎する - ソ連共産党の解体にさいして」という声明を発表した。その一方、ソ連・東欧諸国の脱社会主義への動きを「歴史の逆行」とも評しており、その整合性に疑問の声も上がった。1980年代には、中国共産党に反論する形で、「社会主義完全変質論」を否定し、「社会主義の復元力」を主張していたこととは明らかに矛盾していた。ほぼ時を同じくして、政府与党や社会党(現在の社会民主党)を含む他の野党、マスコミなどにより「体制選択論」「冷戦終結論」「保革対立消滅論」が大々的に宣伝され、党員の所属する労組・団体の弱体化が進み、党・労組・団体の解散と政治・社会運動からの撤退などの要求を突きつけられるなど、その後の選挙では苦戦を強いられた。
戦後60年間国会では小政党の域に留まっており、国政与党になったことはないが、ソ連解体後、世界で多くの共産党が改名または解散する中で、共産党の名と議会勢力をともに維持している。1990年代後半には日本社会党からの離反層を取り込み、集合離散の続いた他党候補者の濫立も有利に作用して衆議院で一時的に勢力を回復し、1998年の参議院選挙では、15議席を獲得し、非改選議員とあわせて予算を伴う法案の提出権を初めて獲得した。その後は小選挙区制の定着による二大政党制指向の強まりや総議員定数の削減、昨今の日本周辺の国際情勢も相まって国会の議席が後退した。『しんぶん赤旗』の発行部数も、ピーク時の半分ほどにまで減少している。また、当選人数が1人であり大政党に有利な傾向の強い小選挙区制では共産党候補の当選はきわめて難しいものとなっている。1996年の第41回総選挙では、小選挙区で2議席(京都3区の寺前巌と高知1区の山原健二郎)を獲得したが、それ以降、小選挙区での当選はない。
2000年の第22回党大会第7回中央委員会総会(7中総)では、党規約から「前衛党」規定を削除する規約改定案が提案され採択された。また、同年不破哲三に代わり志位和夫が委員長となり、不破は宮本に代わり議長となった。この不破・志位体制の成立により、宮本の影響力は低下した。2006年1月11日 - 1月14日に開催された第24回党大会で、いわゆる「現実・柔軟路線」を指導してきた不破哲三が、議長職を高齢と健康などを理由に退き、「委員長志位・書記局長市田体制」が確立した。
共産党の全選挙区擁立戦術は、与党である自民党・公明党の選挙協力体制が緊密化するにつれて、結果的に野党間の候補共倒れ、連立与党候補の過半数に満たない得票率での当選という結果を激増させた。また、共産党候補の供託金没収選挙区も大幅に増え、党の財政を圧迫する要因となった(このため党内でも政党として政党交付金を受け取るべきであるとの意見が党大会前の公開討論の中でも主張されるようになっている)。この間、日本社会党・新進党に代わり民主党が野党第一党となった。
2001年の第19回参議院議員選挙で東京都選挙区から当選者を出したのを最後に、2003年の第43回衆議院議員総選挙、2004年の第20回参議院議員選挙、2005年の第44回衆議院議員総選挙、2007年の第21回参議院議員選挙、2009年の第45回衆議院議員総選挙、2010年の第22回参議院議員選挙では、選挙区での当選者を出すことができなかった。
2003年札幌市長再選挙では日本共産党は公認候補青山慶二を擁立したが、告示後5日目に選挙運動を中止した(公選法で立候補取消不可能)。党道委員会は地元紙のインタビューでは政策の近い中尾則幸支持をほのめかしたが、民主党・横路孝弘側近の上田文雄に票が集まり、安倍晋三シンパの元ニュースキャスターで前清和研代議士石崎岳を逆転し当選。2007年は共産党が上田市政を一定評価し候補者を立てず、上田は再選した。
第44回総選挙では47年ぶりに全選挙区擁立(推薦を含む)を中止したため、25選挙区の「共産空白区」が出てきた。「共産空白区」では与党候補と野党候補が大差の付く選挙区が多く、選挙への影響は小さかった。共産党の小選挙区候補者全275名のうち、223名が10%の得票に届かず供託金を没収された。全300選挙区に候補者を立て235選挙区で没収された前回とさほど変わらない結果だった。共産党自身については、得票数の減少に歯止めがかかった。投票率が上がったため得票率は下がっている。
2006年の国政選挙では、4月と10月に計三選挙区で行われた衆議院議員補欠選挙で、いずれも独自の公認候補を擁立したが、すべての選挙区で落選、供託金も没収されている。また、2007年4月に行われた参議院議員補欠選挙では、福島県選挙区で公認候補を、沖縄県選挙区では、民主党や社民党などと共同推薦候補を擁立したが、いずれも落選、福島県では供託金を没収されている。
2007年の参院選東京都選挙区で公認候補が落選したことで、東京都でそれまで51年間に渡って維持してきた参議院での共産党の議席を完全に失った。現在、共産党が擁している国会議員(衆議院9名、参議院6名)の中に選挙区での当選者は存在せず、すべて比例代表区からの選出である。
今のところ国政選挙で単独での小選挙区当選は難しい現状にあるが、民主党はもとより、護憲という立場で政策距離が近い社民党との選挙協力の目処も現時点では立っていない。その一方、最近の市町村合併にともなう各地の地方選挙では着実に当選者を出し、政党所属の地方議員の総数では第1党の位置を保っている。また他党との協力については東京都多摩地区や青森県、沖縄県などで一定の共闘が実現している。国会内では、2007年9月4日に野党の国対委員長会談に復帰し、他の野党との共闘を強化することになった。
2007年9月8日の第5回中央委員会総会で、次の総選挙から、すべての小選挙区に候補を擁立するのではなく、その小選挙区での比例区の得票率が8%以上の選挙区に擁立する選挙区を絞り込む(ただし、各都道府県で最低1人は候補の擁立を目指す)方針を幹部会は提案した。9月9日、中央委員会はこの提案に賛成し、決定した。この背景には、得票率が10%を割ると供託金が没収されることによって、党財政の悪化の原因となっていることが背景にあるとされる。方針に従い、次期衆議院選挙では前回の05年総選挙の39人(重複を含む)を大幅に上回る70人の候補者の擁立を目標としている。
有権者の投票行動から見た場合、共産党は与党(自民党・公明党)とはもちろん他の野党とも、特に国政に於いては政策的距離がきわめて大きいため、いわゆる無党派層の支持者において特に、選挙のたびに候補者選択に苦慮することになり、野党間の選挙共闘が成立しにくい。小選挙区制の性質上、現在の共産党の戦術が野党に極めて不利に働くことも事実である。得票総数では与党(自民・公明)を上回りながら、野党候補が落選するという事態が多発し、与党批判票が分散する事態となっている。そのため、政策的に遠い民主党とはともかく、社共共闘の復活への待望論は少なからずある。
支持者の一部には「当選の可能性がない以上、選挙区では民主党候補に投票する」動き(戦略投票)が一定数出ていることに対する警戒感は選挙の度に機関紙上で強調されている。
都道府県知事選挙や国政選挙などで独自候補を擁立しても、自民党や民主党の候補と比べると報道は少ないため、機関紙などの自前メディアや街頭演説・ビラ配布など自前の活動が政策提言や意見表明を届ける大きな手段となっている。一方で、葛飾区や豊後高田市などでビラ配布を理由に党員や議員が逮捕される事件も起きている(葛飾政党ビラ配布事件参照)。党はこれらの事件を「言論弾圧事件」として厳しく批判し、裁判闘争を行なっている。
革新懇運動
「社公合意」など日本社会党が右傾化していく状況の中で、日本共産党は「軍事費を削って福祉にまわせ」「非核の一点で結集を」などと呼びかけ、政党の組み合わせによる「革新共闘」を模索するのではなく、「思想、信条、支持政党、の違いを超えた国民多数の革新的な運動の結集」により、新たな革新戦線を全国的に追求する「革新懇話会=革新懇運動」をすすめた。だがこれも、社会党と共産党との間で揺れ動く革新浮動層を共産党に取り込むための方便と見られることも多く、成瀬昇(元愛知県評議長)、西岡瑠璃子(元参議院議員・歌人)、栗原透(元社会党高知県委員長・高知県議)、矢山有作(元衆議院議員)ら元社会党員も多数参加しているにもかかわらず、具体的な選挙共闘としては愛知県・高知県などを除いて現在まで余り大きな成果は得られていない。
革新懇は全国組織の「全国革新懇」、都道府県や市区町村、学区などの単位で結成されている「地域革新懇」、職場ごとの「職場革新懇」など、様々な単位で結成され、活動している。だが実態としては党が名前を変えただけの組織である場合が多く、幅広い結集となっているとは言い難い。
他党との関係
日本共産党は「現在、共闘可能な政党は見あたらない」としている。多くの選挙区に独自候補をたてる戦術は、事実上、自民党に有利に作用し、自民党政権下で野党候補の一本化(主に民主党候補)により政権交代を望む者から「批判票が分散する」などの批判があった。
共産党と他の政党が協力関係を築けていない理由として以下が挙げられる。
#政策的な違い
#日本社会党や部落解放同盟との長年の確執
#共産党の組織を維持・伸張させるために独自候補を擁立する必要があるという内部的な要因
#共産党が過去に労働運動の分野で労使協調路線に対して御用組合と痛烈な批判を行ったこと
こうしたこともあって、民主党・社民党、部落解放同盟などから「独善的体質」「セクト主義」と批判されており、政治評論でもそういったイメージで語られることが多い。
2006年1月23日に書記局長市田忠義と社民党全国連合幹事長の又市征治が会談し、平和憲法維持を目指すべく関係改善し共闘を示唆する報道がされた。
5月20日には「平和共同候補」(護憲派の統一候補)擁立運動を「新社会党の手先の役割を果たしている」として、痛烈に批判した。さらに、2007年5月1日号「しんぶん赤旗」では、擁立運動の確認団体「9条ネット」と新社会党や部落解放同盟との関係を重ねて強調し、全否定する見解を載せた。解放同盟の支援を受ける候補は新社会党のみならず、民主、社民、自民、公明にも存在する。
他党の反応とその事例
同様に他の野党も、共産党との連携に消極的な事が多い。
1990年の総選挙の際には、定数3で共産党議員が長く議席を保持してきた選挙区に、当時の社会党が新人候補を立てたケース(東京9区や和歌山1区など。和歌山1区では社会党候補が共産党に代わって当選)や、現在の民主党が定数1の沖縄県議補欠選挙で泡沫候補を立てて野党票を割り革新系無所属候補の当選を「阻害」したケースも見受けられる。
小選挙区制となって以降、国政・地方選を問わず、共産党は孤立する傾向をより深めている。以下、いくつかの事例を挙げる。
2006年の沖縄県知事選挙では、糸数慶子を推すことで、近年の主要選挙では稀になった事実上の全野党共闘が成立した。民主党内部では長島昭久など党内右派から「共産と手を組んでいる」との批判が行われ、自民党も「共産と手を組んだ民主」などと攻撃した。結果は自民党推薦の仲井眞弘多に敗れた。このように、保守層を中心とした「共産党と手を組むことが悪なのは自明」論の影響力は大きく、他の野党も自民党やマスコミに共産党との協力関係を批判されると、容易に動揺する傾向が見られる。
こういった社会的風潮もあり、表だった協力関係ではなく共産党側に「内部に対しては共闘先の候補者の選挙活動を行ない、その候補へ投票するよう指導・動員を強めるべきだが、対外的には推薦・支持などを公式には表明せず、(共産)党員はあくまでも無党派の支援者として振舞うべき」などの「配慮」を求めるケースもあった。これに共産党側が反発し、非難合戦となったこともある。
2004年には、参議院大阪府選挙区で、辞職中の辻元清美(当時、社民党)の支持者から、辻元を共同候補にし、共産現職の宮本岳志に引退を「強要」する言動がなされたとされる(宮本岳志の項目参照)。結果は辻元も宮本も落選した。
2007年2月に行われた愛知県知事選挙もほぼこのパターンである。共産党は当初、民主党の候補予定者であった前犬山市長の石田芳弘を共同で推そうとして協議を呼びかけた。石田本人は含みを持たせていたものの、陣営はこれを拒絶。共産党は急遽自前の候補者を推薦させざるを得なくなった。民主党が共産支持票による得票の増加よりも自民・公明両党からの「ネガティブキャンペーン」による票の減少を恐れたためとされる。選挙結果は、共産党推薦候補の阿部精六が予想を上回る票を獲得し(もっとも同党が愛知県で持つとされるいわゆる「基礎票」には遠く及ばなかったが)、現職で3選を目指していた神田真秋を急激に追い上げていた石田は僅差で敗北した。
2007年3月の東京都知事選では、共産党推薦の吉田万三と、市民団体が擁立し民主・社民の実質的な支援を受ける元宮城県知事の浅野史郎、現職知事の石原慎太郎の有力三候補が競う形となった。共産党は現職の石原都知事を批判しており、浅野もまた反石原という点では一致していた。石原都知事の圧倒的優勢を覆すため、市民団体は「反石原」で吉田の出馬取り下げを要求した。これに対し、話し合いもないまま取り下げを強要されたと吉田陣営が反発(ただし市民団体側は事前の申し入れはしていたと反論)。志位和夫は「(浅野と)石原都政はうり二つ」と断言しこれを拒否した。
その理由は、民主党が都議会において「オール与党」体制の一翼を占めており、吉田候補は集会等で「他に共闘対象となる候補者が出れば、自分は降りてその人を支援しても良い」と発言していたが、同席していた民主党都議は共産党との共闘を明確に拒否した。このような足並みの乱れもあり、選挙は石原が前回に続いて大勝した。
*その直後の都議会では、民主党や東京・生活者ネットワークは、知事提案の議案にすべて賛成した(社民党は都議会の議席をもっていないが、議席のあった2001年までは知事提案にすべて賛成する石原与党であった)と、共産党側は批判している。
この三例の共通点は、民主党が共産党側に何の利益も与えず、「無償で」自候補への協力を強制したと共産党側が主張していることにある。その真偽は定かでないものの、共産党の反応が極めて厳しいことは確かである。このような真偽不明な双方の見解の相違が頻出し、特に共産党側が事態の打開を望まないともとれる態度を示す点が特徴的である。
また、他党が共産党候補の支持を表明したのは、保坂展人が狛江市長矢野裕を応援した例や、新社会党や沖縄社会大衆党などによる推薦・支持など、ある程度限られる。
*ちなみに、「大規模開発計画撤回」を公約に掲げ当選した、共産党員である陸前高田市長中里長門は、「反小沢一郎」を志向する自民党陸前高田支部の支援をうけていた。共産党の候補を自民党が応援し、民主党と対決したのは全国でもここだけである。このように地方の市町村では、リバタリアン志向の一部の民主党員よりもむしろコミュニタリアン志向の一部の自民党員との間で共闘関係になる場合もある。例えば、京都府城陽市でも、前市長大西忠を自民党京都府連と共産党が支えるという構図になっていた。自民党市議団と民主党は対立候補を支援)。
かつての国労のような労使闘争に際しては、共産党と民主党左派や社民党の共闘が成立することもある。逆に、組合間の対立感情などで両者が対立した場合は、相対的に組合との関係が薄い自民党と協力関係が生じることもある。また、解放同盟批判については、自共共闘が成立しやすい。もっとも、自民党は解放同盟の支援を受けることもあり、同党にとっての解放同盟批判は、多分に圧力団体に服従を求める意味合いが強い。世羅高校事件のように、結果として自民党に一方的に有利な解決(国旗及び国歌に関する法律の成立)が図られたこともある。
現在の状況
共産党は、綱領で当面は単独政権ではなく、「統一戦線の勢力」と協力しての「民主連合政府」を目指すとしている(「民主連合政府」構想)。しかし、現在の野党に、「統一戦線の勢力」として協力できる相手は存在しないとしている。
民主党は、小沢一郎が代表であった当時、共産党との協力の可能性に言及する変化も見られたが、選挙では実態として、両党の協力はほとんど行われていない。なお、2007年参院選後、2007年9月の首班指名選挙では共産党は参議院の決選投票では直近の民意を重視し、小沢一郎に投票している。なお、小沢一郎は1993年に自民党を離党するまで有力派閥田中派及び竹下派の有力人物であり自由民主党幹事長を経験するなど政権中枢の中心人物であり、当時は日本共産党は小沢一郎と大きく対立していた。
2008年9月、麻生内閣の発足に伴い、総選挙への総決起体制として第7回中央委員会総会を開いた。席上で志位委員長は、「働く貧困層」の解消など、自党の語ってきた問題が争点になっていること、自公政権が行き詰まっていること、しかし民主党は自民党の政治悪をただす立場にはないから、共産党の躍進が必要であることなどを述べた。また、「民主連合政府」が求められていることを強調したが、現時点で他党との協力はないという認識は変わっていない。ただし、国会では是々非々で「問題ごとに協力していく」としている。また、総選挙体制のため中央委員会は、2009年1月に予定していた党大会の延期を決定した。
遅くとも2009年10月までに予定されていた第45回衆議院議員総選挙(実際には2009年8月30日投開票)の方針では、小選挙区の候補を大幅に減らすことになった。これは、野党共闘目的ではなく、小選挙区では候補者を立てるだけの力がないところがあるという判断から、比例区と支持基盤のある小選挙区に候補を絞り込もうとする方針転換である。代わりに、比例区との重複立候補を増やしたので、比例での候補者数は増えた。また、大連立騒動や小沢・鳩山の献金問題などから改めて民主党を自民党と「同質・同類の党」と批判し、明確に共闘を否定してきた。さらに、2009年6月5日には、志位委員長は「どちらが政権の担い手になるかの選択ではなく、21世紀の日本の「進むべき道」の選択が問われていること、その「旗印」を示せる党は日本共産党をおいてほかになく」「「二大政党」の競い合いによる暗黒政治への逆行を許さない一番たしかな力は日本共産党をのばすこと」と述べ、民主党による政権交代は無意味どころか、暗黒政治への逆行になるとの見解を示した。
しかし、同年7月には東京都議会議員選挙で44年ぶりに議席が1桁(8議席)に落ち込んだ結果を踏まえ、若干路線を修正。民主党内の改憲論や衆院比例定数削減方針に反対する一方で、「一致点での協力を追求」と明記。労働者派遣法や障害者自立支援法の抜本改正、後期高齢者医療制度の撤廃、農家への所得補償、米軍基地の縮小・撤去などを挙げ、「(自公両党による)暗黒政治への逆行を許さない」と強調し、民主党を「暗黒政治」の批判対象から外した。
一方、自民党の松浪健四郎は、第45回総選挙において、共産党の独自候補擁立が自党有利になるとの見解を示している。選挙区によっては、自民党が直接共産党に擁立を働きかけた事例もある。
結果として議席数は現状維持であり得票率は郵政選挙の7・25%から7・03%に後退したものの、得票数では491万9000票から494万4000票と増加した。選挙後発足した民主党を中心とする非自民非共産連立政権に対しては、「建設的野党」として「良いことには協力、悪いことにはきっぱり反対、問題点はただす」と是々非々の立場を貫くと主張している。
2010年の第22回参議院議員通常選挙では、民主・国民新連立政権の普天間基地代替施設移設問題における違約や、菅直人首相の消費税増税発言などを厳しく批判した。しかし、議席を伸ばしたのはみんなの党と自民党で、共産党は比例のみの3議席に留まり、また得票数・率共に減らした。その結果、敗北を認める声明を出し、「党内外の方々のご意見・ご批判に真摯に耳を傾け、掘り下げた自己検討をおこなう決意」を表明した[[http://www.jcp.or.jp/seisaku/2010_1/20100712_sanin_kekka.html 参議院選挙の結果について]
2010年7月12日 日本共産党中央委員会常任幹部会]。さらに、9月25日~9月27日に行われた第2回中央委員会総会(2中総)で、志位委員長は参院選での後退を詫び、党員数は40万を維持しているものの、高齢化が進んでいること、党費納入率が62%に留まっているなどのデータを挙げ、党勢の衰退を認めた。その上で、「五つの挑戦」を打ち出し、次期総選挙で650万票を目標とすることを表明した。
中央委員会
中央委員会は、最高機関である党大会に次ぐ機関であり、全党を指導し対外的に党を代表する機関であるが、中央委員会総会は規約では年2回以上の開催という規定であるので、日常的には中央委員会常任幹部会が最高指導機関である。日本共産党規約に役職としての最高職の明文規定は無いが、中央委員会議長、中央委員会幹部会委員長、同副委員長、中央委員会書記局長が党三役(党首を含む)である。中央委員会常任幹部会は毎週開かれ、日常党活動を指導している。
*中央委員:163 人
*准中央委員:35 人(中央委員に欠員ができた場合は、中央委員会総会の決定によって准中央委員が中央委員になることがある。)
;中央役員
: 中央委員会議長: 空席
: 中央委員会幹部会委員長: 志位和夫
: 中央委員会書記局長: 市田忠義
: 中央委員会幹部会副委員長: 緒方靖夫、浜野忠夫、広井暢子
: 中央委員会常任幹部会
::不破哲三、志位和夫、市田忠義、緒方靖夫、小池晃、穀田恵二、和泉重行、岩井鐵也、上田均、浦田宣昭、太田善作、大幡基夫、笠井亮、紙智子、小木曽陽司、中井作太郎、西口光、浜野忠夫、広井暢子、山下芳生。幹部会委員の中から選ばれる。
: 中央委員会幹部会
::委員数 57人。委員長、副委員長を含む。
::中央委員会書記局
: 書記局長市田忠義
: 書記局次長 中井作太郎、大幡基夫、佐々木陸海
: 書記局員 和泉重行、岩井鐵也、浦田宣昭、太田善作、河邑重光、坂井希、田川実、棚橋裕一、田村守男、辻慎一、寺沢亜志也、長谷川忠通、藤田健、水谷定夫、柳浦敏彦、山下芳生、山谷富士雄
: 中央委員会政策委員会責任者: 小池晃
: 衆議院議員団団長: 穀田恵二
: 参議院議員団団長: 市田忠義
: 衆議院国会対策委員長: 穀田恵二
: 参議院国会対策委員長: 井上哲士
;名誉役員
: 中央委員会名誉役員: 金子満広、立木洋、松本善明、他。
所属国会議員
;衆議院(9名)
*比例代表
** 高橋千鶴子 - 比例東北ブロック
** 塩川鉄也 - 比例北関東ブロック復活当選、小選挙区埼玉県第8区落選
** 志位和夫 - 比例南関東ブロック
** 笠井亮 - 比例東京ブロック
** 佐々木憲昭 - 比例東海ブロック
** 穀田恵二 - 比例近畿ブロック復活当選、小選挙区京都府第1区落選
** 吉井英勝 - 比例近畿ブロック復活当選、小選挙区大阪府第13区落選
** 宮本岳志 - 比例近畿ブロック
** 赤嶺政賢 - 比例九州ブロック
;参議院(6名)
* 全国比例代表
** 井上哲士 (2013年改選)
** 紙智子 (2013年改選)
** 山下芳生 (2013年改選)
** 市田忠義 (2016年改選)
** 大門実紀史 (2016年改選)
** 田村智子 (2016年改選)
1922年~1923年
|-
|
中央委員会委員長||中央委員会委員長||在任期間
荒畑寒村||荒畑寒村||1922年 - 1923年
堺利彦||堺利彦||1923年 -
1923年~1945年
1945年~1958年
|-
|
中央委員会書記長||中央委員会書記長||在任期間||中央委員会委員
徳田球一 ||徳田球一 ||1945年 - 1953年|| 志賀義雄 || 宮本顕治 || 袴田里見
野坂参三名称は第一書記 ||野坂参三名称は第一書記 ||1955年 - 1958年|| 〃 || 〃 || 〃
1958年~
|}
中央委員会議長 ||中央委員会議長 || 幹部会委員長 || 幹部会副委員長 || 中央委員会書記長/書記局長 || 政策委員会責任者 || 国会対策委員長 || 参議院議員団長
野坂参三 ||野坂参三 || || || 宮本顕治 || 不破哲三 || 林百郎 || 岩間正男
〃 ||〃 || 宮本顕治 || 袴田里見 || 不破哲三 || 上田耕一郎 || 村上弘 || 〃
〃 ||〃 || 〃 || 岡正芳 || 〃 || 〃 || 〃 || 〃
〃 ||〃 || 〃 || 市川正一 || 〃 || 〃 || 松本善明 || 〃
〃 ||〃 || 〃 || 西沢富夫 || 〃 || 〃 || 〃 || 〃
〃 ||〃 || 〃 || 瀬長亀次郎 || 〃 || 村上弘 || 〃 || 上田耕一郎
宮本顕治 ||宮本顕治 || 不破哲三 || 村上弘 || 金子満広 || 〃 || 〃 || 〃
〃 ||〃 || 〃 || 戎谷春松 || 〃 || 吉岡吉典 || 寺前巌 || 〃
〃 ||〃 || 村上弘 || 高原晋一 || 〃 || 〃 || 〃 || 橋本敦
〃 ||〃 || 〃 || 小笠原貞子 || 〃 || 〃 || 〃 || 〃
〃 ||〃 || 不破哲三 || 松本善明 || 志位和夫 || 市田忠義 || 〃 || 〃
〃 ||〃 || 〃 || 金子満広 || 〃 || 〃 || 〃 || 〃
〃 ||〃 || 〃 || 橋本敦 || 〃 || 聴濤弘 || 〃 || 立木洋
〃 ||〃 || 〃 || 山原健二郎 || 〃 || 〃 || 〃 || 〃
〃 ||〃 || 〃 || 聴濤弘 || 〃 || 筆坂秀世 || 〃 || 〃
〃 ||〃 || 立木洋 || 〃 || 〃 || 穀田恵二 || 吉岡吉典
不破哲三 ||不破哲三 || 志位和夫 || 上田耕一郎 || 市田忠義 || 〃 || 〃 || 〃
〃 ||〃 || 〃 || 石井郁子 || 〃 || 〃 || 〃 || 〃
〃 ||〃 || 〃 || 浜野忠夫 || 〃 || 小池晃 || 穀田恵二 || 吉川春子
空席 ||空席 || 〃 || 〃 || 〃 || 〃 || 〃 || 小池晃
衆議院
当選/候補者||当選/候補者||定数||備考
(結党時)||(結党時)||-/-||style="text-align: right;"|464||結党時は非合法
第22回総選挙 1946年(昭和21年)4月10日||第22回総選挙 1946年(昭和21年)4月10日||○ 5/143||style="text-align: right;"|468||追加公認+1
第23回総選挙 1947年(昭和22年)4月25日||第23回総選挙 1947年(昭和22年)4月25日||● 4/120||style="text-align: right;"|466||
第24回総選挙 1949年(昭和24年)1月23日||第24回総選挙 1949年(昭和24年)1月23日||○ 35/115||style="text-align: right;"|466||
第25回総選挙 1952年(昭和27年)10月1日||第25回総選挙 1952年(昭和27年)10月1日||● 0/107||style="text-align: right;"|466||
第26回総選挙 1953年(昭和28年)4月19日||第26回総選挙 1953年(昭和28年)4月19日||○ 1/85||style="text-align: right;"|466||
第27回総選挙 1955年(昭和30年)2月27日||第27回総選挙 1955年(昭和30年)2月27日||○ 2/60||style="text-align: right;"|467||
第28回総選挙 1958年(昭和33年)5月22日||第28回総選挙 1958年(昭和33年)5月22日||● 1/114||style="text-align: right;"|467||
第29回総選挙 1960年(昭和35年)11月20日||第29回総選挙 1960年(昭和35年)11月20日||○ 3/118||style="text-align: right;"|467||
第30回総選挙 1963年(昭和38年)11月21日||第30回総選挙 1963年(昭和38年)11月21日||○ 5/118||style="text-align: right;"|467||
第31回総選挙 1967年(昭和42年)1月29日||第31回総選挙 1967年(昭和42年)1月29日||○ 5/123||style="text-align: right;"|486||
第32回総選挙 1969年(昭和44年)12月27日||第32回総選挙 1969年(昭和44年)12月27日||○ 14/123||style="text-align: right;"|486||
第33回総選挙 1972年(昭和47年)12月10日||第33回総選挙 1972年(昭和47年)12月10日||○ 38/122||style="text-align: right;"|491||追加公認+1、沖縄人民党より合流+1
第34回総選挙 1976年(昭和51年)12月5日||第34回総選挙 1976年(昭和51年)12月5日||● 17/128||style="text-align: right;"|511||追加公認+2
第35回総選挙 1979年(昭和54年)10月7日||第35回総選挙 1979年(昭和54年)10月7日||○ 39/128||style="text-align: right;"|511||追加公認+2
第36回総選挙 1980年(昭和55年)6月22日||第36回総選挙 1980年(昭和55年)6月22日||● 29/129||style="text-align: right;"|511||
第37回総選挙 1983年(昭和58年)12月18日||第37回総選挙 1983年(昭和58年)12月18日||● 26/129||style="text-align: right;"|511||追加公認+1
第38回総選挙 1986年(昭和61年)7月6日||第38回総選挙 1986年(昭和61年)7月6日||○ 26/129||style="text-align: right;"|512||追加公認+1
第39回総選挙 1990年(平成2年)2月18日||第39回総選挙 1990年(平成2年)2月18日||● 16/131||style="text-align: right;"|512||
第40回総選挙 1993年(平成5年)7月18日||第40回総選挙 1993年(平成5年)7月18日||● 15/129||style="text-align: right;"|511||
第41回総選挙 1996年(平成8年)10月20日||第41回総選挙 1996年(平成8年)10月20日||○ 26/321||style="text-align: right;"|500||
第42回総選挙 2000年(平成12年)6月25日||第42回総選挙 2000年(平成12年)6月25日||● 20/332||style="text-align: right;"|480||
第43回総選挙 2003年(平成15年)11月9日||第43回総選挙 2003年(平成15年)11月9日||● 9/316||style="text-align: right;"|480||
第44回総選挙 2005年(平成17年)9月11日||第44回総選挙 2005年(平成17年)9月11日||○ 9/292||style="text-align: right;"|480||
第45回総選挙 2009年(平成21年)7月21日||第45回総選挙 2009年(平成21年)7月21日||○ 9/171||style="text-align: right;"|480||
参議院
(参考文献:石川真澄(一部山口二郎による加筆)『戦後政治史』2004年8月、岩波書店・岩波新書、ISBN 4-00-430904-2)
* 当選者に追加公認は含まず。追加公認には会派に加わった無所属を含む。
* 第22回総選挙の定数には、選挙を実施できなかった沖縄選挙区(定数2)含む。
* 『戦後政治史』にない追加公認は2 国会議員会派別議員数の推移(召集日ベース)(衆議院、1990年~1999年)・2 国会議員会派別議員数の推移(召集日ベース)(衆議院、1996年~2003年)、2 国会議員会派別議員数の推移(召集日現在)(衆議院、2001年~2008年)、(2) 参議院(1990年~1999年)(2) 参議院(1994年~2004年)・(2)参議院 (召集日現在) (2001年~2008年)にある、選挙直後の国会召集日の会派所属者数から判断した。ただし、第20回通常選挙直後の召集はない。
当選/候補者||当選/候補者||非改選||定数||備考
(結党時)||(結党時)||-/-||style="text-align: right;"|-||style="text-align: right;"|-||参議院は存在せず
第1回通常選挙 1947年(昭和22年)4月20日||第1回通常選挙 1947年(昭和22年)4月20日||○ 4/42||style="text-align: right;"|-||style="text-align: right;"|250||第1回のみ全員選挙
第2回通常選挙 1950年(昭和25年)6月4日||第2回通常選挙 1950年(昭和25年)6月4日||○ 2/50||style="text-align: right;"|2||style="text-align: right;"|250||
第3回通常選挙 1953年(昭和28年)4月24日||第3回通常選挙 1953年(昭和28年)4月24日||● 0/16||style="text-align: right;"|1||style="text-align: right;"|250||
第4回通常選挙 1956年(昭和31年)7月8日||第4回通常選挙 1956年(昭和31年)7月8日||○ 2/34||style="text-align: right;"|0||style="text-align: right;"|250||
第5回通常選挙 1959年(昭和34年)6月2日||第5回通常選挙 1959年(昭和34年)6月2日||○ 1/36||style="text-align: right;"|2||style="text-align: right;"|250||
第6回通常選挙 1962年(昭和37年)7月1日||第6回通常選挙 1962年(昭和37年)7月1日||○ 3/47||style="text-align: right;"|1||style="text-align: right;"|250||
第7回通常選挙 1965年(昭和40年)7月4日||第7回通常選挙 1965年(昭和40年)7月4日||○ 3/48||style="text-align: right;"|1||style="text-align: right;"|250||
第8回通常選挙 1968年(昭和43年)7月7日||第8回通常選挙 1968年(昭和43年)7月7日||○ 4/49||style="text-align: right;"|3||style="text-align: right;"|250||
第9回通常選挙 1971年(昭和46年)6月27日||第9回通常選挙 1971年(昭和46年)6月27日||○ 6/51||style="text-align: right;"|4||style="text-align: right;"|252||
第10回通常選挙 1974年(昭和49年)7月7日||第10回通常選挙 1974年(昭和49年)7月7日||○ 13/54||style="text-align: right;"|5||style="text-align: right;"|252||
第11回通常選挙 1977年(昭和52年)7月10日||第11回通常選挙 1977年(昭和52年)7月10日||● 5/52||style="text-align: right;"|11||style="text-align: right;"|252||
第12回通常選挙 1980年(昭和55年)6月22日||第12回通常選挙 1980年(昭和55年)6月22日||● 7/52||style="text-align: right;"|5||style="text-align: right;"|252||
第13回通常選挙 1983年(昭和58年)6月26日||第13回通常選挙 1983年(昭和58年)6月26日||○ 7/71||style="text-align: right;"|7||style="text-align: right;"|252||
第14回通常選挙 1986年(昭和61年)7月6日||第14回通常選挙 1986年(昭和61年)7月6日||○ 9/71||style="text-align: right;"|7||style="text-align: right;"|252||
第15回通常選挙 1989年(平成元年)7月23日||第15回通常選挙 1989年(平成元年)7月23日||● 5/71||style="text-align: right;"|9||style="text-align: right;"|252||
第16回通常選挙 1992年(平成4年)7月26日||第16回通常選挙 1992年(平成4年)7月26日||● 6/71||style="text-align: right;"|5||style="text-align: right;"|252||
第17回通常選挙 1995年(平成7年)7月23日||第17回通常選挙 1995年(平成7年)7月23日||○ 8/72||style="text-align: right;"|6||style="text-align: right;"|252||
第18回通常選挙 1998年(平成10年)7月12日||第18回通常選挙 1998年(平成10年)7月12日||○ 15/70||style="text-align: right;"|8||style="text-align: right;"|252||
第19回通常選挙 2001年(平成13年)7月29日||第19回通常選挙 2001年(平成13年)7月29日||● 5/72||style="text-align: right;"|15||style="text-align: right;"|247||
第20回通常選挙 2004年(平成16年)7月11日||第20回通常選挙 2004年(平成16年)7月11日||● 4/71||style="text-align: right;"|5||style="text-align: right;"|242||
第21回通常選挙 2007年(平成19年)7月29日||第21回通常選挙 2007年(平成19年)7月29日||● 3/63||style="text-align: right;"|4||style="text-align: right;"|242||
第22回通常選挙 2010年(平成22年)7月11日||第22回通常選挙 2010年(平成22年)7月11日||● 3/64||style="text-align: right;"|3||style="text-align: right;"|242||
地方政治
* 与党の自治体:61(2011年4月30日現在)
** 単独与党:12
*** 党員市町村長:9 (国見町(福島県)、蕨市(埼玉県)、狛江市(東京都)、大島町(東京都)、朝日町(富山県)、御代田町(長野県)、南牧村(長野県)、木曽町(長野県)、福崎町(兵庫県))
* 地方議員:2,794人(2011年6月1日現在)
** 都道府県議会:100人
*** 議席を有する都道府県議会:40
***党所属議員が存在しない都道府県議会:7 (愛知県、栃木県、神奈川県、静岡県、三重県、滋賀県、福岡県)
** 政令市議会:124人
** 特別区議会:132人
** 市議会:1,633人
** 町村議会:805人
* 党地方議員(団)は、中央における国会議員団と同様に、当該級の委員会(指導機関)の指導を受ける。
* 都道府県議会では、自民、民主、公明に次ぐ第4位の勢力、市町村議会では最多の議員数である。
* 新日本出版社 - 党幹部の著書やしんぶん赤旗関連の書籍を多く発行する。
* ジャパンプレスサービス - しんぶん赤旗の記事を英訳
* 日本民主青年同盟(民青同盟) - 日本共産党が相談相手であると同組織自身が規定している。
*日本国民救援会
*平和・民主・革新の日本をめざす全国の会(全国革新懇) - 日本共産党と無党派による革新統一戦線運動
*憲法改悪阻止各界連絡会議(憲法会議)
*中央社会保障推進協議会(中央社保協) - 社会保障の拡充を求める労働組合や生活協同組合などとの共闘組織
*消費税廃止各界連絡会(各界連)
*安保破棄中央実行委員会
*非核の政府を求める会
恒常的な協力・共同闘争関係にあるか執行部に党員が多いと見られている党外諸団体。●印の団体代表は団体内日本共産党後援会の代表を兼ねる例が多く、また全国革新懇に代表世話人を送り出している。執行部の党員についてはしんぶん赤旗日刊紙の訃報欄に於ける経歴で判明する。
* 全日本民主医療機関連合会(全日本民医連)●
* 全国商工団体連合会(全商連)●
* 農民運動全国連合会(農民連)●
* 全国労働組合総連合(全労連)●
* 新日本婦人の会(新婦人)●
* 自由法曹団
* 日本平和委員会
* 新日本スポーツ連盟
* 全国地域人権運動総連合(全国人権連) - 全国部落解放運動連合会(全解連)後継団体
* 民主主義科学者協会(民科)
* 日本アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会(日本AALA)
* 原水爆禁止日本協議会(日本原水協)
* 婦人民主クラブ(婦民。旧・婦民(再建))
日本共産党はかつて「一国一前衛党論」を掲げ、複数の共産党・労働者党がある国では一つの党としか関係を持たず、その立場から複数の共産党・労働者党と関係を持つソ連共産党や中国共産党を激しく非難した。だが今日では、日本共産党はインドにおける2つの共産党と関係を結ぶなどして、かつての主張を事実上撤回している。
アジア
;インド
*インド共産党
*インド共産党 (マルクス主義)(CPIM)
;中国
*中国共産党
*:''日中共産党の関係を参照''
;ベトナム
*ベトナム共産党
;スリランカ
*スリランカ共産党
欧州・アフリカ
;スウェーデン
* 左翼党 (スウェーデン)
;デンマーク
* 社会主義人民党
;チェコ
* ボヘミア・モラビア共産党
;キプロス
* 労働人民進歩党
;ギリシア
* ギリシャ共産党
;スペイン
* スペイン共産党
;ハンガリー
* ハンガリー労働者党
;イタリア
*共産主義再建党
;チュニジア
*立憲民主連合
米州
;ブラジル
* ブラジル共産党(PCdoB)
* ブラジル社会主義人民党
;ベネズエラ
* ベネズエラ共産党
;エルサルバドル
*ファラブンド・マルティ民族解放戦線(FMLN)
;ニカラグア
*サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)
;キューバ
* キューバ共産党
;アメリカ合衆国
* アメリカ共産党
thumb|250px|第40回赤旗まつり(2010年11月)
* 赤旗まつり
; 災害時の対応
* 災害時には、全国に置かれた党組織のネットワークを駆使した被災地支援活動を行っている。
2011年3月11日に発生した東日本大震災では被災地のために募金活動を行い「東日本大震災救援募金」として計6億5千万円を被災自治体や被災地の農協、漁業に届けているほか、全国の党支部から被災地へ援助物資が送られた。被災地域の党支部も関連団体と協力して各地で炊き出しや被災者に食糧や水、衣類など生活物資を配布した。
党の公式文献
* 日本共産党中央委員会『日本共産党の八十年』(日本共産党中央委員会出版局、2003年) ISBN 4530043932
* 日本共産党中央委員会『日本共産党第23回党大会決定集』(日本共産党中央委員会出版局、2004年)
* 日本共産党中央委員会『自由と民主主義の宣言』(日本共産党中央委員会出版局)
党員による著作
* 不破哲三『私の戦後六〇年 日本共産党議長の証言』(新潮社、2005年8月)
* 不破哲三『日本共産党史を語る』(新日本出版社)
* 宮本顕治『日本革命の展望』上下(新日本出版社)
* 宮本顕治『日本共産党の立場』(新日本出版社)
* 犬丸義一『日本共産党の創立』(青木書店、1982年9月) ISBN 4250820394
党外部の人の著作
* 朝日新聞社編『日本共産党』(朝日新聞社)
* 立花隆『日本共産党の研究』全三巻(講談社文庫)
* 戸川猪佐武 『小説自民党対共産党』(角川文庫)
* 小泉信三『共産主義批判の常識』(講談社学術文庫/新潮社)
* 思想運動研究所編『日本共産党事典(資料編)』(全貌社)
* テリー伊藤『お笑い革命日本共産党』(飛鳥新社)
離党した・除名された人の著作
* 袴田里見『昨日の同志宮本顕治へ』 新潮社、1978年
* 兵本達吉『日本共産党の戦後秘史』(産経新聞社)
* 油井喜夫『汚名』(毎日新聞社 1999年 287頁)ISBN 4620313513。
* 油井喜夫『虚構 - 日本共産党の闇の事件 - 』(社会評論社 2000年 286頁)ISBN 4784514090
* 筆坂秀世『日本共産党』(新潮新書/新潮社) ISBN 4106101645
当局側の文献
* 警備研究会『日本共産党101問』(立花書房)
:著者の実態不明。公安警察関係者のグループと見られる。
* 『日本共産党 - その路線とジレンマ - 』(別冊治安フォーラム 立花書房)
* 田代則春『日本共産党の変遷と過激派集団の理論と実践』(立花書房)
* 弘津恭輔『共産主義運動の研究』(立花書房)
その他
* 大野達三『警備公安警察の素顔』(新日本出版社)ISBN 4406015922
* 塩田庄兵衛『日本社会運動史』(岩波書店)
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