郵政造反組復党問題においては、無所属議員の復党を強く支持したが、落選していた衛藤晟一の復党・参院選出馬が持ち上がった際は参院選の責任者の立場から「百害あって一利なし」などと発言している。衛藤の復党に反対する理由として、舛添は「公明党との選挙協力に支障が出るため」と述べている。しかし過去において、自身が1999年東京都知事選挙に完全無所属で出馬した際、対立候補の一人である明石康(元国連事務次長)が公明党との選挙協力を円滑にする意図のあった自民党に擁立された候補であることに激しく反対していた。
尊敬する政治家は野中広務と青木幹雄である(舛添は当選以来無派閥)。先述のように党の政策部会への出席率は高く、野中からは「自民党議員は舛添さんを見習うべき」と評された。現実に野中らは03年自民党総裁選の際、反小泉の統一候補として舛添擁立を真剣に考えていたとされる。反小泉候補としては他に平沼赳夫擁立構想が一時取り沙汰されていたが、野中と平沼が政治的信念を180度異にすることや派閥の領袖だった亀井静香が難色を示したため、実現に至らず、舛添の名が浮上したとされる(後に亀井自身が立候補している)。野中は筑紫哲也NEWS23に出演した際、「秘策がある」と明言しているが、その秘策とは舛添擁立構想を指すものと思われる。野中は最終的には舛添擁立を断念し、藤井孝男を擁立した。
自身は、憲法改正に前向きな姿勢を示して居る。しかし、自民党改憲案の取り纏めでは民主党や国民に受け入れられることを重視し、保守色を薄めるべく調整にあたった。中曽根康弘元首相が中心となって作成した自民党憲法草案の原案から、「日本の国柄」を明記した箇所を小泉純一郎首相(当時)の了承を得て削除させたのは舛添である。
厚生労働大臣時代、ネット販売規制を盛り込んだ改正省令を施行し、事実上インターネットで大部分の医薬品購入を禁止した。これについて、国民の生活を考えていない、または無視していると強く批判された。またこの件について医薬品新販売制度の円滑施行に関する検討会の開催を指示したが、検討会は実質規制を前提にした形式上のものだったため、批判をかわすポーズに過ぎないとの批判を受けた。
厚生労働大臣として
年金問題
2007年8月下旬に社会保険庁や社会保険事務所職員による年金保険料の着服問題が発覚した際、「盗人には牢屋に入ってもらう」と述べ、刑事告発を約束した。しかし、舛添大臣在任中に年金横領で刑事告発された職員は確認されていない。また、社会保険庁職員よりも市区町村職員(以前は徴収業務が国から地方自治体に委任されていた)のほうが着服件数・着服総額が多かったこと(社保庁職員による保険料着服:52件、約1億6939万円、市区町村職員着服:101件、約2億4383万円)に鑑み、「銀行は信用できるが、社保庁は信用ならない。市町村は社会保険庁よりもっと信用ならない」と発言した。これに対し、年金保険料の横領が確認されていない自治体市長から抗議を受けたが、舛添は「小人(しょうじん)のざれ言に付き合っている暇はない」と発言した。この発言は各地の市長から反発を招いたが、舛添は「バカ市長って言ってほしいということなんですか。バカ市長、アホ市長って言うよりいいじゃないですか。含みがあって」「頭からバカ市長と言われるのは嫌でしょう。だから、小人(しょうじん)って言った。その温かみだけは感じて下さいよ。教養の問題、教養」と、更なる批判を展開したが、2007年10月16日参院予算委員会において、これらの発言について「非常に不適切な言葉であった」と述べ、撤回した。
2007年ユーキャン新語・流行語大賞で「消えた年金」という言葉が受賞。その授賞式に、年金問題の当事者であり、行政の責任者である厚生労働大臣として授賞式に出席。笑顔で賞を受け取る。
2007年12月11日、上述の「消えた年金」に関係し、宙に浮いた年金記録約5000万件中、945万件の特定が困難との社会保険庁の調査結果を受け記者会見し、「他の方が大臣になっても結果は同じ。ないものはないんだから」、「(参院選で)年金は最大のテーマ。『できないかもしれないけどやってみます』なんて言いませんよ」と発言し、開き直りではないかと報道された。
このように社会保険庁の台帳保全、情報管理の不備が明らかになるなかで、舛添は、年金記録問題の解決に向けてスピードアップを図るべく、2008年1月22日に大臣直属の「年金記録問題作業員会」を発足。委員会のメンバーには函館大学客員教授の磯村元史、ジャーナリストの岩瀬達哉ら政府批判派を積極的に起用した。以後、舛添は同様の人材起用で諮問機関の開催を進めることになるが、この方法について舛添は次のように述べている。
あらゆる組織にいえることだが、イエスマンばかりで固めては、何も解決しない。批判をする人間は、それまでの組織の人間が持ち得なかった情報や、考え方を持っている。外から批判されるくらいなら、中でそのアイデアを活かし、問題を解決するエネルギーに転化してもらったほうが何倍もいい。
一方で、反対側の人間からばかり意見を聞いていては、従来のスタッフが納得しない、双方から情報と意見を出してもらい、判断は、責任者である組織のトップ―つまり大臣である私が下す。このバランスが肝要なのだ。
なお、2008年11月5日、全国社会保険職員労働組合などのヤミ専従をしていた者と責任者の20名ほどを刑事告発する方針を明らかにした。大臣直属の「服務違反調査委員会」は告発については慎重な判断を求めていたが、給与をもらいながら組合活動をしていた行為は、公的年金制度の信頼を損ねるものだと述べ、厳しい対応を取った。
医療改革
奈良県のいわゆる「妊婦たらい回し事件」(2007年8月)などを背景に、舛添は現場の医師から情報収集を行い、医師不足の問題への取り組みを始める。ただし、当時の厚労省は、現場の医師の声とは180度異なり、1997年の閣議決定に基づき「医師は余っている」との認識を変えていなかった。そこで、舛添は2008年1月、医政局に指示し「安心と希望の医療確保ビジョン検討委員会」を設置。人選が医政局によって進められたこともあり委員会の議論は医師過剰論に流れがちであったが、舛添は現場からの情報を提示することで委員や職員を説得し、「従来の閣議決定に代えて、医師養成数を増加させる」などの文言を盛り込んだビジョンを策定した。
なおこの間には、2008年1月19日、医師不足問題についての国民対話集会で、「医者は十年後にしか育たない。仮に、いま足りない医師をばーんと増やしたら、十年たったら余って医者のホームレスが生まれることになる」と発言し、厚生労働大臣としての配慮に欠けると批判されることもあった。
2008年6月27日に上記のビジョンの主張を織り込んだ『骨太の方針』が閣議決定されると、舛添は政策の具体化を急ぐべく、半月後の7月、「『安心と希望の医療確保ビジョン』具体化に関する検討会」を設置。この検討会の委員は舛添自らが人選を行い、直接電話をかけて就任を要請。具体的には、山形大学の医学部改革を成し遂げた嘉山孝正、医療ADRによる医療コンフリクト・マネジメントを提唱する和田仁孝ら「日本の医療行政について積極的に発言し、厚労省に対しても歯に衣着せぬ苦言を呈することで知られた人物」を起用。舛添は検討会の様子を次のように振り返っている。
人選から官僚の影響力を排除し、厚労行政の欠点を指摘し、批判すべきは批判するという立場の専門家を参加させることによって、「検討会」は活発な議論を展開していった。山形大学の嘉山氏は、それでも医師が置かれた現状について甘い認識しか示そうとしない官僚を一喝し、現場のデータや実績を示した。また、早稲田大学の和田氏は、官僚主導で医療専門職に研修教育を行うという厚労省の考え方を批判し、「実践教育は現場主導で行うべきで、実際に行っている」と述べた。
こうして検討会は16時間にわたる議論を積み重ね、2008年9月22日、「中間とりまとめ」を発表。「勤務医の待遇等の状況を改善するとともに、さらに医療の質を高めるため、医師養成数については増加させるべきである……将来的には50%程度医師数を増加させることを目指すべきである」などと宣言し、従来の医師数抑制政策からの大きな転換を実現させることになった。
薬害肝炎
福田内閣発足直後の2007年10月の国会で薬害C型肝炎に関するいわゆる「命のリスト」問題が発覚。舛添は、官僚からの事前のブリーフィングで「厚労省に提出されたリストからは、フィブリノゲン製剤を投与されていた患者の個人情報を特定することはできない」と聞いていたが、その3日後、個人の特定に結び付く資料が厚生労働省の地下倉庫に残っていたことが判明。舛添は、即座に調査プロジェクトチームを発足させ、年内の和解を目指し、被害者全員を救済する方針を表明した。
政府はこれまで薬害肝炎訴訟の解決に、決して積極的ではなかった。……私は「命のリスト」問題を奇貨として厚労省の責任をあぶりだし、一気に問題の解決を図ろうと考えたのである。
厚労省の官僚はこの方針に対立姿勢をみせたが、最終的には、議員立法で一律救済する政治決断を行い、薬害肝炎問題は基本的な解決を見ることになった。
労働問題
厚生労働大臣就任後、労働法制に詳しい識者にホワイトカラーエグゼンプション法を、「家庭だんらん法」に言い換えるよう指示。さらに法案成立に全力を尽くすとした。
2008年4月23日、朝日新聞は、日本電産社長の永守重信が「社員全員が休日返上で働く企業だから成長できるし給料も上がる。たっぷり休んで、結果的に会社が傾いて人員整理するのでは意味がない」「休みたいならやめればいい」と述べたと報道した
[「休みたいならやめればいい」急成長の日本電産社長 - asahi.com 2008年4月23日]。この発言について、連合の高木剛会長は同年4月26日のメーデー中央大会において「まさに言語道断。労働基準法という法律があることを、また、労働基準法が雇用主に何を求めていると思っているのか、どのように認識されているのか。ぜひ問いただしてみないといけない、そんな怒りの思いを持って、この日本電産のニュースを聞いたところであります」と永守を批判。同大会に出席していた舛添は直後の来賓挨拶で、「労働関係法令はきちんと遵守してもらわないといけない。きちんと調査し、指導すべきは指導し、法律にもとるものがあれば厳正に処分する」と明言した
[『J-CASTニュース : 「休みたいなら辞めろ」発言は言語道断! 連合会長、日本電産社長を批判』ジェイ・キャスト、2008年4月26日。]。一方、日本電産は「休みたいならやめればいい」発言は事実ではないとする文書を同社の公式サイトに掲載している。
2008年12月19日、日本年金機構の採用問題に関して日本弁護士連合会から「日本の労働法制に背馳するものである」として違憲であり違法であると指摘された。
2009年8月18日、横浜市内の演説で年末年始かけて東京・日比谷公園に設けられた「年越し派遣村」に言及し、「(当時)4000人分の求人票を持っていったが誰も応募しない。自民党が他の無責任な野党と違うのは、大事な税金を、働く能力があるのに怠けている連中に払う気はないところだ」と述べた。これに対し、派遣村実行委員だった関根秀一郎・派遣ユニオン書記長は「求人として紹介されたのは確かだが、誰も応募しなかったというのは全くのでたらめ。たくさんの人が応募したが、断られたのがほとんどだ。舛添氏の発言は現場の実態が全く分かっておらず、あきれてものが言えない」と批判した。。