前田 武志(まえだ たけし、1937年10月22日 ‐ )は、日本の建設官僚、政治家。学位は工学修士(京都大学)。参議院議員(2期)、国土交通大臣(第16代)。
衆議院議員(4期)、衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員長、衆議院逓信委員長、参議院国家基本政策委員長、参議院予算委員長などを歴任した。
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生い立ち
奈良県十津川村出身。五條中学、大阪府立高津高等学校を経て京都大学工学部を卒業。同大学大学院修了後、建設省に入省。
官界にて
三重工事事務所所長、建設省河川局建設専門官などを歴任した。また、国土庁の専門調査官なども務めた。1974年からは外務省に出向し、在南ベトナム大使館一等書記官としてベトナム戦争最中の南ベトナムに赴任した。1975年のサイゴン陥落直前には、現地の日本人およそ2000名の救出を手掛けた[「怒号飛ぶ審議を仕切る」『朝日新聞』45024号、12版、朝日新聞東京本社、2011年9月3日、5面。]。その際、「日本は自国民の安全も守れないのか」と感じたのが、のちに政界入りするきっかけとなった。その後、シドニー駐在領事などを歴任した。
政界入り
1983年の総選挙に自民党公認・木曜クラブ新人として出馬するが落選。1986年の総選挙で初当選し、山村・林業研究会会長などを務めた。宮澤内閣では国土政務次官を務め、国土庁長官の東家嘉幸を支えた。
自民党離党から民主党合流へ
1992年、経世会の会長代行だった小沢一郎が羽田孜を領袖に担いで改革フォーラム21を旗揚げし、前田も羽田派に加わる。1993年に羽田、小沢らに従って自民党を離党し、新生党結党に参加。そのまま新進党に合流するが、新進党時代は反小沢の羽田に従い離党、太陽党を結成。太陽党では総務会長を務める。その後、国民の声・フロムファイブが合併し羽田を党首に民政党が結成されるが、民政党はすぐに旧民主党に合流し、1998年に民主党が結党された。
民主党
2000年の第42回衆議院議員総選挙では民主党公認で5選を目指したが、自民党の田野瀬良太郎に小選挙区で敗北し、比例復活でも落選。2001年の第19回参議院議員通常選挙では自民党幹事長だった野中広務から自民党復党の誘いを受けるが、固辞。民主党公認で奈良県選挙区から出馬したが、再び落選。2003年に奈良県知事選挙に出馬するも、柿本善也知事に敗れる。3度続けての落選により前田の政治生命は終わったと見る向きもあったが、2004年の第20回参議院議員通常選挙で比例区から出馬し、奈良県選挙区から出馬した新人の前川清成との連携により、当選。この際の選挙も非常に接戦であり、当確の報道が流れ万歳が行われた時間は投票日の翌日の午前5時ごろであった。
2010年10月、参議院予算委員長に就任。11月17日、参議院予算委員会において菅直人内閣総理大臣を指名する際に「仙谷総理大臣」と言い間違えたため委員からどよめきや拍手が起こった。
野田政権
2011年9月2日、野田内閣において国土交通大臣に就任した[「人事異動」『官報』号外特43号、国立印刷局、2011年9月2日、1面。]。また、国務大臣としての所管事項として「海洋に関する施策を集中的かつ総合的に推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」も担当することになった。同日の記者会見では、八ッ場ダム建設の是非について「基本的には(大畠章宏)前大臣の考え方を受け止め、予断なく判断していく」と述べた。
全国環境整備事業協同組合連合会との関係が深く、2009年9月18日に開催された同会の会合で「選挙ではお世話になりました。政権を取ったので、勉強してきた政策をしっかりやっていく」と挨拶している。
2008年1月、在日韓国人等に参政権を付与することを目的とする「在日韓国人をはじめとする永住外国人住民の法的地位向上を推進する議員連盟」が民主党内に発足し、参加する。2009年3月11日、在日本大韓民国民団中央本部の幹部らと会談し、共生社会実現のため、永住外国人への地方参政権の早期付与に尽力することを改めて表明したが、2010年の参院選では、外国人参政権への反対意見を表明している。
2008年3月26日、国鉄労働組合のJR採用差別闘争の院内集会に参加し、連帯の挨拶を行った。
科学技術庁長官・原子力委員会委員長を務めた前田正男は父方の叔父。帝国陸軍の中佐(参謀)・陸上自衛隊の将補を務めた堀栄三は母方の叔父。
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