鹿野 道彦(かの みちひこ、1942年1月24日 ‐ )は、日本の政治家。民主党所属の衆議院議員(11期)、農林水産大臣(第52・53代)。
衆議院運輸委員長、農林水産大臣(第14代)、総務庁長官(第12代)、新党みらい代表、国民の声代表、民政党幹事長、民主党副代表、衆議院予算委員長等を歴任した。
父は元衆議院議員の鹿野彦吉。
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生い立ち
山形県山形市生まれ。山形大学附属小学校、山形大学附属中学校、山形県立山形東高等学校を経て1965年に学習院大学政経学部政治学科卒業。その後、父である鹿野彦吉衆議院議員の秘書となる。父は1972年の第33回衆議院議員総選挙で落選した事を受けて政界引退。次の選挙の第34回衆議院議員総選挙に後継として旧山形県第1区から自由民主党公認で出馬し、初当選を果たす。当選後は福田赳夫率いる清和会(現・清和政策研究会)に入会。1980年の第2次大平内閣不信任決議案採決では反主流派として他の福田派の議員と共に本会議を欠席。ハプニング解散の一因となった。
「清和会のプリンス」
第36回衆議院議員総選挙後には将来有望な若手が任命される衆議院議事進行係も経験した。1981年に運輸政務次官、1986年に衆議院運輸委員長を務める等、当初は運輸族議員としてキャリアを重ねる。
1989年、リクルート事件で政界が揺れる中、リクルートと関係の深い政治家が謹慎を余儀なくされ(リクルート・パージ)、リクルートと縁が薄い鹿野は第1次海部内閣で農林水産大臣に任命され、初入閣を果たした。農水相在任中はGATTのウルグアイ・ラウンドや、日米貿易紛争の一つであった牛肉・オレンジなどの農産物輸入自由化問題に取り組み、農林水産省を代表して食糧安全保障論を展開した。
この頃から清和会の次期リーダー候補(いわゆる安倍派四天王)に次ぐ将来のリーダー候補として目され、福田の後に派閥領袖となった安倍晋太郎が首相就任を目前に死去した際に、派の分裂を抑えようと次の領袖候補として石原慎太郎・小泉純一郎と共に名前が挙がったこともある(最終的には四天王の三塚博が就任)。
農水相退任後は党副幹事長や党内の政治改革本部の委員として政策提言を行う。このことから、1992年の東京佐川急便事件に端を発する政治改革の動きを受けて組閣された宮澤改造内閣で総務庁長官に任命され、2度目の入閣を果たした。総務庁長官在任中は、主に許認可権の削減や規制改革に取り組み、この頃羽田派を中心に推進の動きが強まった政治改革についても推進する立場を取り、宮澤の前の首相である海部俊樹が会長を務める政治改革推進議員連盟のメンバーにも名を連ねていた。しかし、首相の宮澤喜一は政治改革の法制化にあまり積極的でなく、結局宮澤内閣の不信任決議案が羽田派の羽田孜、小沢一郎らの造反により可決されたため、宮澤は衆議院を解散。自民党を離党した羽田派が新生党を結党し、また不信任案には反対したものの自民党を離党した武村正義、田中秀征、鳩山由紀夫らの新党さきがけ、細川護煕や小池百合子ら日本新党が第40回衆議院議員総選挙で大勝し、宮澤自民党は過半数を割り込む。総選挙後、宮澤内閣は退陣した。
なお鹿野は、内閣の閣僚であったことと、派閥の領袖であり宮澤の下で政務調査会長を務める三塚に配慮し、不信任案への賛成や離党の行動は取らなかったが、次第に執行部への不信感を募らせるようになった。
自民党を離党、新進党へ
1994年、細川内閣総辞職直前の4月15日に自民党を離党。18日に新党みらいを結成し、党代表に就任した。細川内閣の後を継いだ羽田内閣には新党みらいも参画(閣外協力)したものの、日本社会党の連立離脱により少数与党に転落し、わずか2ヶ月で退陣する。その後の首班指名選挙では自民党を離党した海部俊樹に投票するも、自民・社会・さきがけ3党が擁立した日本社会党委員長の村山富市に決選投票で敗れ、自社さ連立政権の村山内閣が誕生。新党みらいは海部を代表とした政党連合の自由改革連合を結成した後、12月10日の新進党結党に参画する。
新進党では海部党首の下で「明日の内閣(新進党版影の内閣)」外務大臣を務め、日本の国連安保理常任理事国加入を主張、核開発を続ける中国に対するODAに疑問を呈するなど積極的に活動した。また当時は、政府の提出した不戦決議に対して新進党の外交政策担当として「一元的には対応できない問題」として反対する姿勢を示し、村山首相が「朝鮮半島が南北に分断されたのは我々にも責任がある」と発言したとされることについても予算委員会で厳しく追及するといった(当時の社会党政権に対し、対立軸を鮮明にするという意図もあるが)保守的な姿勢を強く打ち出していた。
海部党首退任後の第2回新進党党首選挙では小沢一郎の推薦人となり、小沢が当選後の明日の内閣では総務庁長官となった。しかし鹿野らが推し進めてきた小選挙区制での初の選挙である第41回衆議院議員総選挙で新進党は敗北。この結果を受け、小沢ら執行部の運営に不満を持った羽田孜や奥田敬和らが離党し太陽党を結成するなど党内情勢が不安定に。更に小沢や自民党の梶山静六・亀井静香らが提唱した保保連合構想によって小沢の求心力はさらに低下する。1997年、このような状況を受けて小沢の再選を阻止すべく「今こそ新進党は生まれ変わらなければならない」と自ら党首選に出馬。小沢と一騎打ちとなり、結果的に小沢の再選を許すも小沢230票・鹿野182票と善戦した。選挙後、鹿野は小沢の手を取って選挙後の党の団結をアピールするが、小沢は鈍化路線に走り選挙9日後の12月27日に一方的に新進党解党を宣言する。
新進党解党後、党内の反小沢系の保守派議員を集め、1998年1月4日に国民の声を結成し代表に就任。さらに23日、太陽党・フロムファイブ(細川護煕代表)と合流し、羽田を党首にかついで民政党を結党。鹿野は党幹事長に就任するが、間もなく民政党は民主党に合流した。
民主党入党後
入党後は政権戦略研究会(羽田グループ)に所属する。当初は領袖である羽田の首相再登板を目指していたが、離脱者の続出や羽田の高齢化などから現在ではあまりグループの行動は見られない。
民主党では入党後から副代表に就任したほか、国会対策委員長や党憲法調査会会長などを務めるが、2002年に業際研事件が発覚。元秘書の経営するコンサルタント会社が公共工事の口利きに関与したとして元秘書が競争入札妨害罪及び収賄罪の疑いで逮捕される。その際、この会社に鹿野が秘書給与を肩代わりさせていた事実が発覚し、2月に民主党を離党。同年、9年間にわたり親族が経営する企業に元秘書3人の給与3390万円を肩代わりさせていた事実も発覚した。その後民主党に復党したが、翌年の第43回衆議院議員総選挙では山形県第1区で自民党の遠藤利明に敗れ、比例復活により辛勝。さらに2005年の第44回衆議院議員総選挙では小泉旋風の煽りを受けて再び遠藤に敗れ、比例復活もできず議席を失った。
2009年の第45回衆議院議員総選挙では遠藤を破り、国政復帰を果たした。ただし、過去に遠藤を破った第42回衆議院議員総選挙に比べて票差は小さく、遠藤に約2,000票の僅差まで詰め寄られ、比例復活を許した。この選挙により民主党は政権交代を果たし、鹿野も羽田内閣以来15年ぶりに与党復帰を果たした。9月、衆議院予算委員長に就任。12月に発生した天皇特例会見問題では予算委員長として政府に対し、天皇の公的行為に関する統一見解を出すよう要請した。
2010年9月、菅改造内閣で21年ぶりに農林水産大臣に就任し、通算3度目の入閣を果たした。なお、この内閣改造に先駆けて行われた民主党代表選挙では、支持する候補者を明らかにしていなかったが、菅直人の再選により一時は鹿野の民主党幹事長への起用も取り沙汰された。結局岡田克也外相が幹事長に就任し、農林水産大臣の山田正彦は小沢一郎を支持していたため、鹿野が山田に代わり農林水産大臣に任命された。就任直後、政策秘書が、政策秘書の知人の居酒屋社長とその従業員の間の紛争示談を仲介したことが週刊誌で報道された。
2011年1月の菅再改造内閣発足に際し、菅直人首相が推進の立場を取るTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)に対して、「アジア太平洋の経済連携にはTPP以外の選択肢もある」と態度を明確にしていなかったため留任は微妙との見方もあったが、最終的に留任した。
諫早湾干拓事業で漁業関係者らによる有明海の環境変化とそれによる漁業被害を巡る裁判で福岡高等裁判所は2010年12月6日、「5年間の潮受け堤防排水門開放」を国に命じる判決を言い渡した。2011年1月15日、農林水産省としての「上告・開門調査」の意向を覆し、菅首相が上告を断念すると表明したことで判決が確定した。佐賀県をはじめとする漁業を優先とする近隣県はこの上告断念を高く評価したが、長崎県は防災、農業経営の継続という観点から強く反発した。鹿野の意思とは異なる総理決断であったが、1989年に諫早湾干拓事業が着工した際の農林水産大臣であったこともあり、閣僚の一人として長崎県の開門反対派に謝罪するため1月23日長崎県諫早市を訪問した。中村法道長崎県知事の抗議をはじめ2時間半にわたる怒声の中で鹿野は「皆様方に申し訳ない」と何度も謝罪した。
2011年2月19日、反捕鯨団体「シーシェパード(SS)」が南極海で日本の調査捕鯨船に妨害行為を続けている問題で、執拗な攻撃からの調査団員、船員の安全確保が第一であるとし、南極海での調査捕鯨活動をやむなく中止し船団を早期に帰国させることを決めたことを閣議後会見で明らかにし、調査捕鯨船は帰国した。
閣僚の不祥事・不手際などで低迷が続いた菅内閣の中では安定した仕事ぶりで、農林水産大臣として事務方の評価も高かった。民主党参加以降は必ずしも代表候補とはみなされていなかったが、党内で数少ない経験豊富な議員であること、激しい対立を繰り広げていた菅執行部・小沢派どちらとも等距離を保つ中間派とみなされていたことから、2011年初頭から「ポスト菅」として鹿野の名前が一部で報じられていた。同年8月に菅首相が退陣の意向を表明すると、鹿野と共に働く篠原孝・筒井信隆両農林水産副大臣ら有志議員が19日に代表選への立候補を要請、「政治人生の中で最も重い要請を頂いた」と前向きに応じる構えを見せ熟慮を重ねていた。
8月26日に首相が退陣を正式に発表したことを受け、2011年民主党代表選挙への出馬を正式に表明。大畠章宏国土交通大臣を選対本部長に迎えた。8月27日、立候補を届け出る。記者会見において、消費税は経済状況が好転しない限り増税しないことや、原発は安全を点検し情報を開示した上で再稼動に理解を求めることを主張した。選挙戦では、海江田万里経済産業大臣との決戦投票になった場合に反小沢票が鹿野に集まることを警戒した海江田陣営の切り崩しに遭う。5人が立候補した8月29日の民主党代表選挙では52票で4位。野田佳彦と海江田万里の2名による決戦投票では、上着を脱いで野田への投票を合図し、野田代表選出に一役買った。
代表選後の8月31日、自身を支持した議員35名と共に政策グループ(鹿野グループ)を立ち上げた。9月2日に発足した野田内閣でも農林水産大臣に再任され、また、鹿野グループからは前田武志が国土交通大臣として入閣を果たした。
政策・主張
* 基本政策は「公平な社会」、「地方主権社会」、「日本人の心を大切にする社会」としている。
* 民主党の農林漁業の再生を考える運動本部本部長を務めていた際に、「国の水産予算3000億円のうち、2000億円が漁港予算。この使い方を根本的に改めなければならない。海を生き返らせるための『海中の森』の造成や、漁村集落の実施する資源回復事業への直接支払いなど、資源管理を基本とした漁業政策を確立する」との見解を示している。農林水産大臣就任以降は、「攻めの農林水産業」「強い農林水産業」を旗印に、成長産業としての農林水産業を確立すべく新しい時代の農政づくりを目指した。
* 2003年の衆院選の際、北朝鮮による日本人拉致問題を「人道無視の国家的犯罪」としテロ行為であると厳しく批判した。2006年に北朝鮮が核実験を行った時には国際連合憲章第7章に基づく制裁措置をとるべきと主張し、経済制裁についても賛成している。
* 2009年の衆院選の際、永住外国人に地方参政権を認めることについて「どちらかと言えば賛成」、憲法の改正についても「どちらかといえば賛成」と回答した。ただし、憲法9条の改正には反対している。
* パチンコチェーンストア協会政治分野アドバイザーを務める。
* TPP参加については慎重である。この理由として、TPPに参加すれば日本の制度を大幅に変えなければならなくなることを挙げた。
政治資金
* 消費者金融業界の政治団体である「全国貸金業政治連盟」(全政連)から政治献金を受けていると日本共産党の機関紙「しんぶん赤旗」で伝えられた。
* 2009年の資金管理団体と政党支部の収入合計は、山形県選出自民党衆議院議員の遠藤利明(山形1区)、加藤紘一(山形3区)が1億6457万円、1億6070万円で企業・団体献金が2636万円、3886万円と、両者が全国会議員中上位19位、20位にエントリーしているのに対し、収入合計5042万円、企業・団体献金は237万円と極めて低い資金状況であり、見るべきものがない。
所属議員連盟
* 日印友好議員連盟(顧問)
* 日本ベトナム友好議員連盟(会長)
* 食と農の再生議員連盟(会長)
* 弁理士制度の改革推進に関する議員連盟(会長)
* 生活衛生業振興議員連盟(会長)
* 太陽光発電推進議員連盟
* 国際観光産業振興議員連盟
* 憲法調査推進議員連盟
* 日本・クウェート友好議員連盟(名誉会長)
:など
人物像
* 座右の銘は「慎始敬終(しんしけいしゅう)」。
* 趣味はへらぶな釣り。将棋も2段の腕前だという。
* 身長は180cm。
人物評
* 2011年3月11日に発生した東日本大震災への対応について、4月10日投開票の東京都知事選挙で当選した石原慎太郎知事は、当選後のインタビューの中で「鹿野君というのはね、実務の分かっている大臣だから。珍しい大臣ですよ、今の内閣では」と鹿野の対応を肯定的に評価した。
* 2011年の民主党代表選の際、出馬を熟慮する鹿野に対し野党である自民党の丸山和也・山田俊男両参議院議員が8月24日に農林水産省を訪ね「他の候補は力量不足だ。(他候補と比べ)鹿野さんが一番ふさわしい」と異例の出馬催促を行った。また、同じ自民党の長谷川岳参院議員からも8月23日の参議院農林水産委員会で「一次産業を守られるという姿勢は見えて、共感の持てる方であると思っている」、「一次産業を守るという姿勢で代表選でメッセージを発してほしい」と出馬を呼び掛けられるという一幕があった。
* 余計な事を話さない性格から「ブリキのパンツ」との愛称がある。
当落 ||当落 || 選挙 || 施行日 || 選挙区 || 政党 || 得票数 || 得票順位
/候補者数 || 比例区 || 比例順位
align="center"| 当||align="center"| 当||align="center"| 第34回衆議院議員総選挙||align="center"| 1976年12月5日||align="center"| 山形県第1区||align="center"| 自由民主党||align="right"| 60,199||align="right"| 4/8||align="center"| -
align="center"| 当||align="center"| 当||align="center"| 第35回衆議院議員総選挙||align="center"| 1979年10月7日||align="center"| 山形県第1区||align="center"| 自由民主党||align="right"| 79,694||align="right"| 1/6||align="center"| -
align="center"| 当||align="center"| 当||align="center"| 第36回衆議院議員総選挙||align="center"| 1980年6月22日||align="center"| 山形県第1区||align="center"| 自由民主党||align="right"| 86,210||align="right"| 2/7||align="center"| -
align="center"| 当||align="center"| 当||align="center"| 第37回衆議院議員総選挙||align="center"| 1983年12月18日||align="center"| 山形県第1区||align="center"| 自由民主党||align="right"| 76,668||align="right"| 1/9||align="center"| -
align="center"| 当||align="center"| 当||align="center"| 第38回衆議院議員総選挙||align="center"| 1986年7月6日||align="center"| 山形県第1区||align="center"| 自由民主党||align="right"| 94,320||align="right"| 1/8||align="center"| -
align="center"| 当||align="center"| 当||align="center"| 第39回衆議院議員総選挙||align="center"| 1990年2月18日||align="center"| 山形県第1区||align="center"| 自由民主党||align="right"| 97,277||align="right"| 2/7||align="center"| -
align="center"| 当||align="center"| 当||align="center"| 第40回衆議院議員総選挙||align="center"| 1993年7月18日||align="center"| 山形県第1区||align="center"| 自由民主党||align="right"| 103,559||align="right"| 1/6||align="center"| -
align="center"| 当||align="center"| 当||align="center"| 第41回衆議院議員総選挙||align="center"| 1996年10月20日||align="center"| 山形県第1区||align="center"| 新進党||align="right"| 81,047||align="right"| 1/4||align="center"| -
align="center"| 当||align="center"| 当||align="center"| 第42回衆議院議員総選挙||align="center"| 2000年6月25日||align="center"| 山形県第1区||align="center"| 民主党||align="right"| 90,349||align="right"| 1/3||align="center"| -
align="center"| 比当||align="center"| 比当||align="center"| 第43回衆議院議員総選挙||align="center"| 2003年11月9日||align="center"| 山形県第1区||align="center"| 民主党||align="right"| 81,580||align="right"| 2/4||align="center"| 東北ブロック||align="left"| 重複1位(惜敗率5位)
align="center"| 落||align="center"| 落||align="center"| 第44回衆議院議員総選挙||align="center"| 2005年9月11日||align="center"| 山形県第1区||align="center"| 民主党||align="right"| 86,755||align="right"| 2/3||align="center"| 東北ブロック||align="left"| 重複1位(惜敗率11位)
align="center"| 当||align="center"| 当||align="center"| 第45回衆議院議員総選挙||align="center"| 2009年8月30日||align="center"| 山形県第1区||align="center"| 民主党||align="right"| 106,202||align="right"| 1/5||align="center"| 東北ブロック||align="left"| 重複1位
当選回数11回 (衆議院議員11)||当選回数11回 (衆議院議員11)
*「明日を翔る男たち : 闘う自民党青年部」愛山政経調査会、1982年7月
*「農の復権 : 21世紀農林水産業の活力を求めて」翠嵐社、1991年10月
*「山形新幹線 : 鉄路の復権」翠嵐社、1992年6月
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