小沢 一郎(おざわ いちろう・本名:小澤 一郎(おざわ いちろう)、1942年(昭和17年)5月24日 ? )は、日本の政治家である。衆議院議員(14期)、民主党岩手県総支部連合会代表。官報などでは、旧字体で小澤一郎と表記される。
自治大臣(第34代)、国家公安委員会委員長(第44代)、自由民主党幹事長、新生党代表幹事、新進党党首(第2代)、自由党党首、民主党代表(第6代)、民主党幹事長(第9代)などを歴任。90年代以降、55年体制終焉後の日本を代表する政治家の一人である。
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生い立ち
thumb|父である小沢佐重喜(右)と吉田茂(中央)、佐藤榮作(左)
岩手県人の弁護士・政治家小沢佐重喜の長男として東京市下谷区(現在の東京都台東区)御徒町に生まれた。父佐重喜は当時東京府会議員をしていた。母・みちは元千葉県会議員荒木儀助の四女である。一郎は、みちにとってははじめて生んだ子供である。父は44歳、母は42歳という高齢で生まれたため、まるで“孫みたいな”子供だったという。本籍地は岩手県奥州市水沢区(旧水沢市)袋町。
一郎が3歳になる頃、東京大空襲を逃れるため小沢家は佐重喜の生まれ故郷の水沢に疎開した。
学生時代
水沢市立水沢小学校(現在の奥州市立水沢小学校)を経て、水沢市立常盤中学校(現在の奥州市立東水沢中学校)の2年生を修了後、東京の文京区立第六中学校に転校する。なかなか級友たちの中に入っていけず、いつも教室の片隅でひとりぽつんと座っていたという。
東京都立小石川高等学校卒業後、父と同じ弁護士を目指して東京大学を志望し、2年間浪人したが断念して、慶應義塾大学経済学部に入学。
大学時代のニックネームは、“おとうちゃん”。浪人したため周囲の学生よりやや年齢が上回っており、さらに身体も大きく寡黙でどことなく落ち着いた風貌を漂わせていたことからこうしたニックネームがつけられた。青年でありながら老成した雰囲気を備えていた奇妙な学生だった。
当初から経済学よりは法律の勉強に熱心で、法律関係の授業を熱心に聴講していたという。
1967年(昭和42年)春大学を卒業。本格的に弁護士を目指すために日本大学大学院で法律を学ぶ。
1968年5月8日父・佐重喜が心不全で急逝、一郎は弁護士になることを断念した。
自由民主党時代
田中派時代
thumb|200px|田中角榮(左)と
1969年(昭和44年)、父・佐重喜の急死に伴い第32回衆院選に旧岩手2区から自由民主党公認で立候補し、27歳の若さで当選した。この総選挙を党幹事長として指揮したのが田中角栄で、以後七日会・木曜クラブ(田中派)に所属し、田中の下で薫陶を受けた。この頃派内の若手議員の世話をしていたのが、当時中堅議員だった金丸信であり、後々まで続く師弟関係の始まりとなった。なお、初当選間もない頃に甲状腺癌を患い、一時は声が出なくなり政界引退も考えたというが、手術で完治している。
1982年に自民党総務局長に就任。1983年の第13回参議院議員通常選挙で(初の厳正拘束名簿式)比例区での順位付けや京都府第2区_(中選挙区)の2人欠員による衆院補選で、執行部内で2人擁立を避けて1人擁立に留める意見が大勢を占める中で、2人擁立論を主張。谷垣禎一と野中広務の2人を擁立し、絶妙な票割をして2人とも当選させた。このことが安倍晋太郎や渡辺美智雄といった党内各派の有力者に評価され「選挙の小沢」と呼ばれるきっかけとなった。
その後に衆議院議院運営委員長を歴任し、1985年(昭和60年)に第2次中曽根内閣第2次改造内閣で自治大臣兼国家公安委員長として初入閣した。
竹下派時代
1985年、木曜クラブの領袖として影響力を保持していた田中に反旗を翻した竹下登、金丸信らと共に派内勉強会「創政会」を結成。のちに経世会(竹下派)として独立した。竹下派七奉行の一人に数えられ、竹下の総裁就任に奔走。竹下内閣の発足後、官房副長官に就任。小渕恵三官房長官に「竹下内閣では三人の官房長官がいる。一人は本物の私、二人目は二内閣で官房長官を経験した竹下登総理、三人目は官房副長官の小沢一郎」と評されていた。この時期、日米間の電気通信協議や建設協議を取りまとめて実績をあげた。
竹下派、特に金丸の意向によって成立した第1次海部俊樹内閣では金丸の推薦により47歳の若さで党幹事長に就任。金丸・竹下とともに、政権の実質的な実力者となり、ねじれ国会下で公明党など野党とのパイプを駆使して国会対策にあたった。リクルート事件後初の総選挙で苦戦が予想された第39回衆院選を、自由主義体制の維持を名目に経済団体連合会(経団連)傘下の企業から選挙資金300億円を集めて勝利。首相である海部をしのぐ権勢や集金力から「剛腕」と称された。
1990年(平成2年)、金丸を代表とする北朝鮮訪問団(金丸訪朝団)に参加する。
同年8月、湾岸戦争が勃発し、小沢はペルシャ湾に自衛隊を派遣することを模索した。「アジアへの配慮が必要だ」と反対する外務省や、ハト派である海部の慎重論を抑え、法案を提出させた(なお、この法案は野党の反対で廃案となり、後に国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(PKO協力法)が成立)。自衛隊派遣について国会で公明党の協力を得るため、東京都知事選挙で自民党東京都総支部連合会が推す現職の鈴木俊一に代わり、新人の磯村尚徳を擁立するも都連が鈴木を支援した事もあり敗北。なおこの都知事選公示直前に出馬に意欲的であったアントニオ猪木と会談し、出馬を断念させたが、多額の金銭が動いたと一部メディアに報じられた。1991年(平成3年)4月、責任を取り党幹事長を辞任したが、直後に経世会会長代行に就任し、名実とともに派閥のNo.2として、引き続き海部政権の実力者であり続けた。しかし、次第に金丸は小沢に派閥を譲ろうと企図するようになり、首相再登板を狙う竹下との確執を深める。この年の6月、狭心症で倒れて日本医大病院に入院、40日余りの療養生活を送った。
同年、政治改革法案が国会で廃案となったため、首相の海部が衆議院の解散総選挙をぶち上げたが、党内の反発を招き、海部は首相辞任に追い込まれた(海部おろし)。その際、金丸が小沢に対し後継首相となるよう命じ、金丸の意を受けた渡部恒三なども小沢を説得したが、当時49歳という年齢や心臓病を理由にこれを固辞したとされる。
10月10日、自由民主党総裁選挙での派閥が支持する候補者を決定するため、出馬表明していた宮沢、渡辺美智雄、三塚博らと自身の個人事務所でそれぞれ面談した(いわゆる「小沢面接」)。当時は竹下派の支持が事実上次の総裁を決定する状況にあり、当選回数あるいは年齢で上回る派閥の領袖たる総裁候補を自分の事務所に呼びつけ、次期首相を品定めするかのような振る舞いは傲慢であると批判されるとともに当時の竹下派の権勢を物語るものと捉えられ、今日に至るまで「経世会支配」「剛腕小沢」の象徴的シーンとして取り上げられている。
竹下派分裂、羽田派結成
1992年(平成4年)、東京佐川急便事件を巡り、金丸が世論から激しい批判を受け派閥会長を辞任、議員辞職した(東京佐川急便事件に関しては、小沢も1993年(平成5年)2月17日に証人喚問を受けている)。後継会長に小沢は金丸に近かった渡部恒三、奥田敬和らと共に羽田孜を擁立し、竹下直系の小渕恵三を推す竹下、橋本龍太郎、梶山静六らと対立。当初中立であった参院竹下派に竹下自らが関与して小渕支持を決定。この結果として後継会長は小渕に内定した。敗れた小沢は羽田、渡部、奥田らと改革フォーラム21(羽田派)を旗揚げし、派閥は分裂した。
宮沢喜一改造内閣における羽田派の閣僚ポストは、経済企画庁長官(船田元)と科学技術庁長官(中島衛)の2つだけと冷遇された。さらに党幹事長には派閥の後継会長を巡り激しい闘争を演じた小渕派の梶山が就任したことで、羽田派は反主流派に転落した。これに対し小沢は主流派を「守旧派」と、自らを「改革派」と呼び、持論であった政治改革の主張を全面に訴えた。
こうした中で小沢は、5月20日に、著書『日本改造計画』を発表した(実際に店頭に並んだのは6月下旬)。同書は政治家の著作としては異例の70万部を超える売上を記録し、1993年を代表するベストセラーになった。自らの政策・政見を広く国民に問うもので、小沢の理念を基に官僚や専門家を中心に政策としてまとめた。
自民党離党、非自民連立政権成立
1993年(平成5年)6月18日、野党から宮沢内閣不信任案が上程され、羽田・小沢派ら自民党議員39名が賛成、16名が欠席する造反により不信任案は255対220で可決された。宮沢内閣は衆議院を解散した(嘘つき解散)。同年6月21日に武村正義らが自民党を離党(新党さきがけを結党)した。これが羽田・小沢派の議員に離党を決断させる一因となり、6月23日、新生党を結成した。小沢は幹事長にあたる党代表幹事に就任するが、党結成の記者会見を行ったとき会場に姿が見えず「党首(羽田)の陰に隠れて暗躍している」との批判を受けた。新生党代表幹事時代には番記者との懇談会やぶら下がり取材を断り、記者クラブに属さない海外メディアや週刊誌記者も含めた記者会見を報道機関との接点とする。その後、事実でないとする記事を書いた報道機関を記者会見から締め出したため、公党の指導者は無条件で取材に応じるべきとするジャーナリズムからの批判を招いた。
7月18日、第40回衆院選において自民党は過半数割れし、新生党、日本新党、新党さきがけの3新党は躍進した。宮沢内閣は総辞職した(後任の自民党総裁に河野洋平が選出)。小沢は総選挙直後から日本新党代表の細川護煕と非公式に会談した。細川は自民党との連立を検討していたが、小沢から首相就任を打診されたことで非自民勢力へと傾斜した。8月9日、8党派連立の細川内閣が成立した。
細川政権下で小沢は内閣とは別に与党の意思決定機関である「連立与党代表者会議」を開き、公明党書記長の市川雄一とともに政権の主導権を握ろうとし(一一ライン)、官邸主導の政治を目論む内閣官房長官の武村正義と激しく対立した。
1994年、小沢と大蔵事務次官の斎藤次郎が中心となり、消費税を廃止し7%の福祉目的税を創設するという「国民福祉税」構想を決定した。2月3日未明、細川は突如、「国民福祉税」構想を発表し、世論の激しい反発を受けた。また、社会・さきがけ・民社各党の批判に合い、翌日、細川は「国民福祉税」構想を白紙撤回するに至った。内閣官房長官の武村は、公然と「国民福祉税構想は事前に聞いていない」と発言、小沢との対立はますます先鋭化した。武村か小沢かの選択を迫られた細川は小沢に軍配を上げ、政権の主導権を奪われた武村や武村率いるさきがけは与党内で孤立し、武村と細川の仲も急速に冷却する。一連の動きに嫌気がさした細川は、4月に突然辞意を表明した。
細川の首相辞任を受けて、小沢は渡辺美智雄との提携を企図するが、渡辺は自民党離党を決断できず構想は頓挫。連立与党は羽田の後継首班に合意した。しかし、1994年4月25日の首班指名直後に、新生党、日本新党、民社党などが社会党を除く形で統一会派「改新」を結成したため、社会党の反発を招き、社会党は連立政権を離脱し、羽田内閣は少数与党となった。
羽田内閣は1994年度予算を成立させたが、少数与党状態の解消をねらって行われた連立与党と社会党との間の政策協議は決裂し、自民党によって内閣不信任案が衆院に提出された。当初は羽田も解散する腹で小沢も同調していたが、結局は解散総選挙を断念。6月25日に内閣総辞職し、羽田内閣は在任期間64日、戦後2番目の短命政権に終わった。
小沢は羽田の後継として、かつて自民党幹事長としてタッグを組んだ元首相の海部俊樹を担ぐことを決めた。もっとも本人はNHKの収録番組において海部を推すことについては自民党内の調整を理由にこれを否定している(社会党首班に嫌悪感をもつ自民党議員によるものと考えられる)。海部は当時自民党政治改革議員連盟会長で、新政策研究会(河本派)代表世話人でもあった。1994年6月29日、自民党は首班指名選挙で社会党委員長の村山富市に投票する方針を示したため、海部は自民党を離党し、高志会・「自由改革連合」を結成、連立与党の首班候補となった。しかし決選投票で261対214で村山に敗れ、小沢は政治家人生において初めて野党の立場に落ちた。新生党内では小沢の責任を追及する声も出たが、旧連立与党を糾合して新・新党の結成を実現するために、小沢の剛腕が必要とされた。
新進党時代
1994年9月28日、日本共産党を除く野党各党187人により、衆院会派「改革」が結成された。また同日、衆議院議員186人、参議院議員39人、計225人の国会議員による「新党準備会」が正式に発足し、新党準備実行委員長に小沢が選出された。こうして小沢を中心に新・新党結成が準備され、同年12月10日に新進党結成大会が行われた。海部が党首となり、小沢は党幹事長に就任した。
1995年7月、第17回参院選で、改選議席19議席を大幅に上回る40議席を獲得した。同年12月に行われた党首選挙では、羽田・細川らを中心に「小沢外し」の動きがあったため、自ら立候補することを決断、長年の盟友である羽田と激突し、小沢は羽田を破り、第2代党首に選出された。しかし、この党首選挙直後に投票者名簿が破棄されるなど、選挙結果が不明瞭であったため、羽田との決裂は決定的なものとなり、党内に更なる亀裂を生じさせた。
1996年10月20日に第41回衆院選が行われ、新進党は小沢の党党首選での主張を党公約「国民との五つの契約」として消費税率の3%据え置き、18兆円減税を公約したものの、改選前の160議席を4議席減らして156議席に止まり、事実上敗北した。原則比例代表との重複出馬を禁止とし、比例区で創価学会の支援を期待し公明党系の議員を優遇したため選挙地盤の弱い若手の新党ブーム世代の議員が多数落選したため、強い反発を浴びこれが後の政局においても禍根を残す事になった。また選挙直後開票中にも拘らず深夜になるまで党本部に姿を見せず雲隠れするなど党首としてあるまじき態度を取った事も強い批判を浴びた。
総選挙後、党内に小沢に対する反発が強まり、離党者が続出した。羽田孜や細川護熙らは非主流派を構成し、1996年12月26日、羽田は奥田敬和、岩國哲人ら衆参議員13名と共に新進党を離党、太陽党を結成した。
1997年、小沢は自民党の亀井静香らと提携する、いわゆる保保連合構想に大きく舵を切った。しかし、新進党内には、こうした保保連合路線に対して二大政党制を志向する立場から反対する勢力も顕在化し、鹿野道彦は政策研究会「改革会議」を結成した。
12月18日の党首選挙で小沢は鹿野を破り再選された。この党首選に先立ち公明が次期参院選を独自で闘う方針を決定し、新進党離れが加速した。党首に再選された小沢は、純化路線を取り、新進党内の旧公明党グループ・公友会、旧民社党グループ・民友会にそれぞれ解散を要求。12月27日に小沢は旧公明党の参院議員を分党し公明に合流させるとし、新進党の分党と新党の結成を発表した。新進党内は混乱に陥り、分党を決定した両院議員総会は、混沌のうちに終わった。
自由党時代
結党・与党復帰
1998年1月6日、自由党を結成、小沢は党首に就任した。当初、100名以上の衆参両議員が集まると思われたが、結局、衆院議員42名、参院議員12名の計54名が参加するに留まり、野党第1党の座を民主党に譲り渡した。
同年7月12日の第18回参院選では苦戦必至と思われていたが小沢人気もあり比例代表で514万票、合計6議席を獲得し善戦した。参院選後の臨時国会では、首班指名に民主党代表の菅直人を野党統一候補に臨み、参院では自民党の小渕恵三を抑え菅が指名された(衆院では小渕が指名されたため、衆議院の優越の原則から小渕が首相に就任した)。
小沢は参院での野党共闘により政府・自民党を追い込む戦略であったが、菅は「政局にしない」と発言、金融再生法の制定で自民党と協力したことにより野党共闘はほころびを見せた。
1998年10月、小沢は内閣官房長官野中広務と会談、連立交渉を開始し、同年11月19日、小渕内閣との間での連立政権について合意した。そして1999年1月14日正式に自自連立政権が成立し、党幹事長の野田毅が自治大臣として入閣、小沢は5年ぶりに与党へ復帰した。この連立の間に衆議院議員定数20の削減、閣僚ポストの削減、および政府委員制度の廃止と党首討論設置を含む国会改革が行われた。また、同年発刊された文藝春秋9月特別号に「日本国憲法改正試案」を寄稿し自らの改憲論について語っている。
1999年10月、公明党が政権に入り、自自公連立政権が成立した。自民、公明両党で参院の過半数を抑えることになったため(もともと野中らは公明を引っ張るがために、自由党と連立を組んだという事情もあった)、政権内部での自由党の存在感は必然的に低下した。自自両党の選挙協力も遅々として進まず、小沢は自民党総裁の小渕総理大臣に対して自自両党の解散、新しい保守政党の結成を要求した。中曽根康弘、亀井静香等は小沢の復党を認める方針であったが党内の反小沢勢力は「小沢の復党は認められない、小沢抜きでの復党は認められる。」とし小沢自身も「復党が認められなければ連立解消だ。」と珍奇ともいえる主張を行い両者は2000年4月1日、会談するが、合意に達せず、結局連立を解消した(なお、この後に小渕は脳梗塞で倒れ、5月14日に死去した)。
分裂
自由党は、小沢を支持する連立離脱派と、野田毅・二階俊博などの連立残留派に分裂し、残留派は保守党を結成した(分裂の結果、自由党は衆院議員18名、参院議員4名の計22名に半減、保守党には26名が参加)。小沢と袂を分かった保守党は政党助成金を半分ずつ分け合うために分党を要求したが、自由党はこれを拒否。保守党議員は離党扱いになり、政党助成金を全く得られず総選挙を迎えることとなった。
2000年6月25日の分裂直後に行われた第42回衆院選で、小沢人気もあり比例代表で約660万票を獲得、現有議席を上回る22議席を獲得し善戦した。このとき、約20億円を投じたとされるテレビCM(小沢が顔を殴られる)は話題となった(一方、保守党は7議席へと激減)。連立離脱後は野党共闘路線へ舵を切ることを余儀なくされたが、(過去に小沢から酷い目に合わされたと感ずる)旧新進党や旧社会党出身者が多い民主党を始めとした野党との関係は当然ギクシャクしたものにならざるを得なかった。
2001年1月、将来の指導者育成を目指し、党内に小沢一郎政治塾(小沢塾)を開設した。なお、小沢塾は民主党との合併後は小沢個人の私塾として運営。
同年7月29日の第19回参院選では、自民党に小泉旋風が吹き、小沢の地元・岩手県選挙区でも大苦戦を強いられたが、僅差で勝利した。議席数は前回と同じ6を維持したものの、自由党の比例代表は約420万票に止まった(第18回参議院選挙より約100万票、第42回衆議院選挙より約220万票の減少)。
民主党へ合流
thumb|200px|ポスター
2002年、第19回参議院選挙での結果もあって、小沢は鳩山由紀夫(当時民主党代表)からの民主・自由両党の合併に向けた協議提案を受け入れた。しかし、民主党内の調整が不十分であったこと及び民主党内の小沢に対する拒否反応の為に頓挫した(なお、鳩山は代表辞任に追い込まれた)。鳩山辞任後に民主党代表に選出された菅直人によって、いったん合併構想は白紙に戻ったが、小沢は党名・綱領・役員は民主党の現体制維持を受入れることを打診し、両党間で合併に合意した。
自由党と民主党の合併の直前に、自由党から13億6816万円の寄付が改革国民会議に対して行われた。改革国民会議は小沢一郎が代表を務めており小沢の関連団体である。13億6816万円のうち5億6096万円が税金を原資とする政党助成金であった。後にこの行為は問題視され、政党助成金法改正案として議論された。
2003年9月26日、自由党は民主党と正式に合併し、小沢は民主党では一兵卒として無役になった。11月9日の第43回衆院選で民主党は、公示前議席よりも40議席増の177議席を獲得、11月27日に代表代行に就任した。民由合併後、小沢が最初に提携したのが旧社会党系の横路孝弘だった。小沢と横路は安全保障面での政策を擦り合わせ、その後横路と旧社民勢力は小沢と行動を共にした。(横路が国政復帰した96年衆院選でも北海道1区において小沢の甥小野健太郎が新進党新人として出馬し横路と戦う予定だったが、非自民で共闘し町村信孝が先祖代々まちむら農場営む北海道5区へ選挙区変更し5区では旧民主党不戦敗)また、小沢は野党結集のために社民党へも民主党への合流を呼びかけたが失敗に終わった。経済政策では、それまでの新自由主義から「地方経済」と「雇用」の重視の方針へ転換した。
当初、小沢派になると見られていた新自由主義的な「小さな政府研究会」には参加せず、東北地方出身議員だけをあつめて「東北議員団連盟」を結成し、地域主義への転向の姿勢を見せた。
2004年5月、年金未納問題による混乱の責任を取り党代表を辞任した菅の後継代表に小沢が内定したが、直後に小沢自身も国民年金が強制加入制度になる1986年以前に未加入だったとして代表就任を辞退した(結局、岡田克也が後任代表となった)。2004年7月11日に行われた第20回参院選の後、岡田の要請により党副代表に就任した。
2005年9月11日、第44回衆院選で民主党は現有議席を60近く減らす惨敗を喫し、岡田は代表を引責辞任し、小沢も党副代表の職を辞任した。岡田の後任代表となった前原誠司は、小沢に党代表代行への就任を依頼したが、これを固辞した。
民主党代表
代表就任
2006年3月31日に前原が、「堀江メール問題」の責任を取って党代表を辞任、4月7日の民主党代表選で小沢は119票を獲得し菅直人を破り、第6代の民主党代表に選出された。両院議員総会の演説で小沢は、「変わらずに生き残るためには、変わらなければならない」という19世紀のイタリア貴族の没落を描いた映画『山猫』の一節を引用し、その上で「まず、私自身が変わらなければなりません」と述べ、「ニュー・小沢」を印象づけた。
代表選後、小沢は菅を党代表代行、鳩山由紀夫を党幹事長にするトロイカ体制を敷いた。また、前執行部と次の内閣メンバー全員を残留させた。小沢は政令指定都市・都道府県の首長選挙に関しては原則として相乗り禁止の方針を打ち出した。
4月23日、メール問題での逆風下にあった衆議院千葉7区補欠選挙で、僅差ながら勝利。半年後の9月12日の民主党代表選に無投票で再選。
9月25日臨時党大会で正式に代表に再選。その後、狭心症の発作の兆候を感じたため、都内の病院に検査入院した。10月5日に退院し、自身の動脈硬化が進んでいることを明らかにした。
国会運営
民主党代表時代の小沢の国会での論戦は、前原時代の「対案路線」ではなく、「対立軸路線」で与党とは対決姿勢を鮮明にした。自著『日本改造計画』では、「過半数が賛成している案を、少数のダダっ子がいて、その子をなだめるために、いいなりになってすべてを変えてしまう」のは「少数者の横暴」だと述べている。小沢は「審議を十分に行えば」与党による採決も止むを得ないという立場を取った。一方、議員数の多さを背景に強行採決した場合には徹底抗戦や審議拒否も辞さない戦う野党の姿勢も示した。ただし、この姿勢は審議拒否を度々行うことで「充分な審議を放棄した」「与党案の成立を手助けしている」との批判を生むことがあった。
外交政策での党内対立
2006年10月に北朝鮮が核実験を行った後の朝鮮半島情勢は「周辺事態法」を適用できるかどうかを巡り、「周辺事態法は適用できない」とする小沢らトロイカ体制の見解を発表した。しかし、これに対して前代表である前原誠司を始めとする党内の若手から「周辺事態法は適用できる」とする意見表明が行われ、また民主党の外交・防衛部門は、「小沢代表らトロイカ体制の見解は民主党の公式見解ではない」と発表し、安全保障政策をめぐる民主党内の対立・不一致が表面化した。
小沢は「核武装の論議を是認すれば『非核三原則を守る』という言葉も国民や国際社会に受け入れられない」と指摘した。しかし、その考えに不満を持つ一部保守層などが、自由党党首時代2002年の小沢の発言である「日本は一朝で数千発の核弾頭を持てる。」と日本の核保有能力について発言したことと比較して批判した。
防衛庁の「省」昇格に対し、自由党時代から防衛庁の省への昇格を主張していた小沢は「国防の任に当たる省庁が内閣府の一外局でしかない状態は良いことではない」と述べた。民主党内には依然反対の声があったため衆院安全保障委員会での防衛「省」昇格関連法案の審議に欠席した。
統一地方選、参院選
2007年4月8日に統一地方選挙(前半)が行われ、地元・岩手県の知事選挙で小沢チルドレンの代表格である達増拓也が当選。岩手県議会議員選挙でも、議席を増やし第1党を維持し、その他の道府県議選・政令市議選でも民主党は230議席(合併前の自由党含む)から145議席増え375議席に躍進した。
4月22日に行われた統一地方選挙(後半)では、市町村議会選挙で、自民党が過去最低議席数になった他、他党が前回議席を割り込む中、民主党は3割近く議席を伸ばした。
7月29日に行われた、第21回参議院議員通常選挙で民主党は60議席を獲得、参議院第1党となり、野党全体(共産党を含む)で過半数を得た。選挙開票当日は「医者からの忠告」を理由に休養を取っていたとし、小沢はマスコミの前に姿を見せなかったが、7月31日の党常任幹事会に多くの報道陣が駆けつける中で出席、小沢は公約通り衆議院議員を今後も続けるとした。また、8月に前代表・前原、元代表・岡田等が党副代表に就任し、挙党体制を構築した。
ねじれ国会
8月8日には、11月に期限切れとなるテロ対策特別措置法(テロ特措法)問題についてマスコミ公開の中、アメリカの駐日大使ジョン・トーマス・シーファーと会談した。シーファーは小沢にテロ対策特別措置法の期限延長に対する理解を求めたが、小沢はアフガン戦争が国際社会のコンセンサスを得ていないとして海上自衛隊の支援活動は認められないと主張し、反対の意向を示した。8月30日にはドイツ首相アンゲラ・メルケルと会談したが、この席でも改めてアフガン戦争が国連によるコンセンサスを得たものではないと主張した。結局テロ特措法は安倍内閣総辞職の影響もあり、期限の延長が出来ずに失効した。
9月12日に首相辞任を表明した安倍晋三の後任となる、内閣総理大臣指名選挙が9月25日に行われ、参議院で決選投票の末に福田康夫(自民党総裁)を抑えて、小沢が指名された(小沢133票、福田106票)。なお、衆議院で指名された福田が衆議院の優越規定に基づき首相となった。なお、両院の指名が異なったのは小渕恵三内閣下で民主党の菅直人が指名されて以来、9年ぶり4度目であった。
2007年11月2日、小沢は福田と会談し、連立政権について提案があった為、意見を党に持ち帰り臨時役員会に諮ったが、民主党内の反対を受け連立を拒否した。11月4日、連立騒動の責任を取り代表辞任を表明したが、民主党内の慰留を受け、11月6日代表続投を表明。11月7日の両院議員懇談会で代表続投が承認された。
その後、テロ特措法の後継の法律として衆議院に提出されていたテロ対策海上阻止活動に対する補給支援活動の実施に関する特別措置法案(新テロ特措法)に対する議決が行われ、民主党が多数を占める参議院では反対多数で否決されたが、2008年1月11日に衆議院本会議で与党の3分の2以上の賛成多数で再び可決・成立した。この再可決の本会議で小沢は採決直前に退席し、党内の一部や他の政党の議員から批判された。対して小沢は「前からの約束で、選挙の約束は一番たがえてはいけないものだ」と強調。大阪府知事選挙の応援があったこともあげ、新テロ対策特措法について、「国民にとっても民主党にとっても大事な法案ではない。反対の意思表示は既にしている。後は数あわせの本会議でしかない。結果は目に見えている。批判は理解できない。国民は理解してくれていると思う」と反論した。
2月29日、衆議院で2008年度予算案が野党3党の欠席のなかで強行採決された。小沢はこれに対し「信頼関係が完全に崩壊した」と発言し、強行採決をしたことで日本銀行総裁人事に影響を及ぼすのは、避けられないとの態度を示す。民主党も強行採決されたのを受け武藤敏郎副総裁の日本銀行総裁への昇格案を参議院で日銀総裁人事を否決した。3月18日、政府与党は改めて田波耕治を総裁候補として提示したが、この人事案も参議院で不同意となり、結果として白川方明が総裁に就任した。
9月22日、民主党代表選で小沢が無投票で3選。
10月23日、前日まで衆院選対策のため福岡を訪れていたが、予定されていたインド首相マンモハン・シンとの会談を、体調不良を理由に欠席、党役員会などの公務もキャンセルし、鳩山が代わって会談した。翌24日に公務へ復帰、衆院選対策のため青森へ出張した[小沢代表、また体調不良 「首相務まるのか」との指摘も 産経ニュース 2008年10月24日]。
2009年5月11日、西松建設疑惑関連で公設秘書が逮捕された件で、民主党代表を辞任。自身の後継を決める代表選挙では、側近として共にトロイカ体制を支えた鳩山由紀夫を支持した。
民主党代表代行
thumb|200px|2009年8月30日、ラフォーレ六本木の民主党開票センターにて民主党代表の鳩山由紀夫(左)と小沢(右)
5月17日、選挙担当の代表代行に就任。菅直人が代行が多くなったことから小沢に筆頭となるよう要請し、3名の代表代行の中では筆頭扱いとなった。代表代行への就任は実に5年ぶりとなる
民主党幹事長時代
民主党代表選再立候補
2010年9月民主党代表選挙にて、途中で現職の菅直人に候補を一本化するなどの動きもあったが最終的に出馬。現職の菅直人首相と一騎打ちで対決し、党内を完全に二分する大激戦となった。鳩山由紀夫、羽田孜が小沢支持を打ち出す一方、かつて小沢の盟友と呼ばれた石井一、渡部恒三が離反し、反小沢に回った(西岡武夫は民主党籍が残っていたが、完全中立、棄権に回ることを表明)。結果は党員・サポーター票で大差をつけられたことが響いて敗北したが、国会議員票では菅とほぼ拮抗する支持を得るなど、引き続き党内で一定の影響力を保持し続けると考えられている。
民主党員資格停止
2010年10月に陸山会事件で検察審査会によって起訴議決され、2011年1月に強制起訴された。
2011年2月22日、小沢一郎が刑事被告人になったことを受けて民主党常任幹事会が提起した「強制起訴による裁判の判決確定まで党員資格停止」とする処分を民主党倫理委員会は小沢からの弁明を聴取しその処分は追認する手続きを経て、民主党常任幹事会はその処分を決定した。
3月1日に小沢は「通常の起訴とは異なる」などとして党員資格停止処分を不服として民主党常任幹事会に申し立てた。3月15日の民主党常任幹事会で処分を最終決定が確定する見込み。
2011年3月に東北地方太平洋沖地震が発生した際には、地元である岩手県が被災したと知り「今からでもいい。一刻も早く飛んでいきたい」と述べ、即座に現地入りを検討した。しかし、救護活動の真っ最中に現地入りすれば、警護などで被災者に迷惑をかけることが懸念されたため断念した。代わりに、岩手県知事ら地元の地方公共団体の職員らに連絡を取り合うなど連携し、その情報を中央省庁など政府関係者に伝え調整を図るなど、政府と自治体との調整役として活動する。なお、小沢の元秘書の中には、岩手県にある自宅が被災し、家に戻れなくなった者もいた。
6月30日、議員会館事務所に小沢元代表と菅直人首相の辞任、民主党と自民党の大連立を求める封書が千枚通しが同封されて届いた。要求に応じないと危害を加えるという趣旨の内容が記載され、「赤報隊」と名乗っていた。
7月1日、菅直人首相宛てに届いの脅迫文の中で、小沢元代表に対し「天誅を下す」と記載され、「赤報隊一同」と名乗っていた。
菅直人首相退陣に伴う民主党代表選挙では小沢の党員資格停止の処分の解除問題も報道で争点として注目され、2009年衆議院選挙公約修正反対の立場から鳩山由紀夫と連携を取りながら小沢グループとして海江田万里を支援。2011年8月30日の衆議院の内閣総理大臣指名選挙では刑事被告人ながら1票を獲得した。
9月10日、日本大学理事会において、古賀誠の後任として、日本大学理事に選任される。
最初の著作である「日本改造計画」では新自由主義を主張し、グランド・キャニオンに柵が無いことを例に上げ、戦後日本の護送船団方式から転換することを主張していた。しかし、民由合併以降は党内左派との融合を進めリベラル色を強めた。
改憲論者である。1999年の「日本国憲法改正試案」では独自の改憲案を示していた。一方、2004年に公表した現行憲法の下での国連派遣部隊構想、さらにそれを発展させ2007年10月に公表した国際安全保障政策では、現行憲法との論理的整合性を維持しながら日本の国際安全保障政策(国連中心主義)を主張している。
改憲論
「憲法改正試案」では以下のように述べている。
; 憲法改正論
: サンフランシスコ講和条約で独立国として承認されたことを契機に、占領下に制定された憲法は無効であると宣言した佐々木惣一や大石義雄と同様に新しい憲法を制定すべきであったと主張している。護憲派学者宮澤俊義の主張に反対し憲法改正論議を支援している。
; 参議院改革論
: 衆議院と参議院がほぼ同等の権限をもっており、共に選挙によって選ばれることになっているので必然的に参議院まで政党化し、本来の二院制度の機能分担が停止していることを挙げ、参議院についてはイギリスのような「権力なき貴族院」の導入を志向する。この場合の「貴族院」議員は選挙によって選出されるのではなく、諸分野における業績のある人物に対して一代限りの爵位や栄典を与え、また衆議院議員を一定期間務めた者も終身の貴族院議員とし、彼ら(小沢自身も含む)による大所高所からの議論を期待するという。
; 憲法裁判所の創設
: 裁判の進行が遅いことを例に挙げ、訴訟法を改正し、ドイツ、フランス、イタリアなどに導入されている憲法訴訟だけを扱う一審制の裁判所新設を主張する。人選は国会あるいは内閣が指名し、私学助成金記載部分の第八十九条を改正し、地方分権基本法を制定して、東京一極集中を分散させるとしている。
皇室
日本国憲法において、天皇は日本の国家元首であると位置づけている[「日本国憲法改正試案」文藝春秋1999年9月特別号www.ozawa-ichiro.jp/policy/04.htmnippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/01252/contents/478.htm]。
憲法解釈
; 内閣法制局の廃止
: 2003年には内閣法制局廃止法案を提出[。内閣法制局について「憲法解釈を確立する権限はない。その任にあるのは内閣だ」としており、2009年現在では、次期通常国会で国会法の改正行い、内閣法制局長官の国会答弁を認めないものとするとしている][新政権、憲法どこへ 小沢幹事長「法の番人」封じ 朝日新聞 2009年11月3日]。朝日新聞などからは「官僚批判の名を借りて、憲法の解釈を変えてしまおうという思惑では」「法の番人」封じではないかとの危惧がなされている[。]
; 憲法9条
: 「専守防衛」に徹し、憲法前文の平和主義と憲法9条の第一項と第二項は保持。第9.5条として平和のための国際協力と国連待機軍の設置を付加。自衛隊は国防に専念させる。なお、自衛権は、個別的であれ集団的であれ、我が国が急迫不正の侵害を受けた場合に限って行使。急迫不正の定義は明確にしない。
; 自衛隊の海外派遣
: 小沢は国際治安支援部隊に対しては容認しており、ダルフール紛争への部隊の参加、国連治安支援部隊(ISAF)への参加など国連中心主義(憲法は国連より下位に位置)を強調した。ただし、その際の武器の使用基準見直しについては明言していなかった。なお政府は、ISAF本体への護衛参加については、合憲であるとの見解をまとめている。。
; 集団的自衛権と集団安全保障
: イラク戦争型 (集団的自衛権の行使)‐ 他国が自衛権を発動して開始した戦争に参戦する有志国軍(OEF)への参加は憲法違反だとし、テロ対策特別措置法の延長にも反対した。
: 湾岸戦争型(集団安全保障に基づく武力行使) ‐ 国連が承認した国連軍、多国籍軍の参加には賛成。
; 天皇
: 1999年当時の論文において、天皇を国家元首として明記すべきとの主張 に対し、現憲法の文章のままでも「国家元首が天皇であることは疑うべくもない」「天皇は国家元首と位置づけられている」と述べている。
外交、防衛政策
; 基本姿勢
: 世界の国々、特に、中国、韓国をはじめアジア諸国と平和で自由で開かれた信頼関係の実現を主張した。具体的には、アジア外交の強化、貿易・投資の自由化、政府開発援助(ODA)の抜本的見直し等。2009年2月24日には「米国もこの時代に前線に部隊を置いておく意味はあまりない。軍事戦略的に米国の極東におけるプレゼンスは第7艦隊で十分だ…あとは日本が自らの安全保障と極東での役割をしっかり担っていくことで話がつくと思う…米国に唯々諾々と従うのではなく、私たちもきちんとした世界戦略を持ち、少なくとも日本に関係する事柄についてはもっと役割を分担すべきだ。そうすれば米国の役割は減る」と述べた。
; 沖縄米軍
: 2010年9月3日、沖縄について「海兵隊の実戦部隊はいらない」と発言し、防衛省のみならず民主党閣内からも、台湾や朝鮮半島有事に対応できない、「(日米合意の見直しと)疑念を持たれる可能性がある」と批判を買った。
; A級戦犯、靖国神社
: 1986年4月2日の国会答弁では「誰もが自然の気持ちで行くべきであると思う。私もそのような自分の気持ちが沸いてきた時今までも参拝してきたしするつもりである」、「国務大臣であろうがなかろうが今後も行きたい」、「A級であろうがB級であろうがC級であろうがそういう問題ではない」、「たまたま敗戦によって戦勝国から戦犯とされた人もいる」などの発言があった。
: また、2008年2月21日の朝鮮日報からのインタビューでは、「靖国神社問題は日本側が大きな間違いをしている。民主党が政権を取ったら、戦争責任者を靖国神社から分祀し、韓国と中国に強力な信頼関係を築く」と述べた。
; 徴兵制
: 自民党より右を主張して新生党を結成したため、憲法改正時、成人年齢18歳引き下げの民法改正を主張している。成人年齢18歳引き下げの民法改正は徴兵制導入のためと言われている。しかし、小沢一郎の政治方針上、婿養子と言うシステムを重視しているため、選択的夫婦別姓の民法改正は消極的と言われている。
; 核武装
: 日本には数千発の核兵器を製造する能力がある(2002年)ものの、軍事的、政治的にも何のプラスにもならない。議論もしてはいけない(2006年)。党内には、核保有を認める意見や核武装を議論すべきとの意見があった。
; 周辺事態法について
: 2006年10月に北朝鮮が核実験を行った後の朝鮮半島情勢は「周辺事態法」を適用できるかどうかを巡り、「周辺事態法は適用できない」とする小沢らトロイカ体制の見解を発表した。しかし、これに対して前原誠司を始めとする党内から「周辺事態法は適用できる」とする意見表明が行われ、また民主党の外交・防衛部門は、「小沢代表らトロイカ体制の見解は民主党の公式見解ではない」と発表し、安全保障政策をめぐる民主党内の対立・不一致が表面化した。
; 北朝鮮拉致について
: 「拉致問題は北朝鮮に何を言っても解決しない。カネをいっぱい持っていき、『何人かください』って言うしかないだろ」と述べたと報道された。
; 領土問題
: 「われわれが与党になったら領土問題にケリをつける」「例えば、尖閣諸島は歴史的に見ても日本の固有の領土だ。それを明確にさせる。自公政権のように弥縫策で先送りすることはしない」と述べ、領土問題の速やかな解決を宣言している。また、2008年7月15日には、 記者会見で学習指導要領の竹島問題について問われ、「教科書云々の前に日韓の考え方の差を埋めるために、しっかり話し合いをすべきだ。話し合いを避けて教科書に載せる載せないの類は順序が違う。事実上韓国が実力支配しているわけですから、それを放置しておいて俺の領土だと言ってもどうしようもないでしょう」と日本政府を批判した。
; チベットと中華人民共和国
: 2008年のチベット動乱の後、2008年4月17日の講演で、チベット問題について「中国の政権が抱える矛盾が民族問題を契機として持ち上がった。共産主義独裁の政権と政治の自由は、原理からいって成り立たない」と発言し、「共産党政権が時代の変化に応じて生き延びようとするなら、自分自身が変化しなければいけない」と中国を批判した。
; 防衛庁の省への昇格
: 防衛庁の「省」昇格に対し、自由党時代から防衛庁の省への昇格を主張していた小沢は「国防の任に当たる省庁が内閣府の一外局でしかない状態は良いことではない」と述べた。ただし、民主党内に反対の声があったため衆院安全保障委員会での防衛「省」昇格関連法案の審議は欠席した。
法務
; 憲法改正(憲法96条)の為の国民投票法案
: 与党提出の法案に反対した。その後民主党案との修正協議を経て修正与党案が成立した。なお社民・共産は法案そのものに反対した。
; 永住外国人の地方参政権
: 旧植民地政策により日本に移住、戦後そのまま在住した永住外国人・その家族が日本国籍を獲得しにくい場合でも、その歴史的事情を勘案し、また地域の住民との連帯感を醸成するために地方参政権を与えるべきと主張している。外国人参政権の獲得を目的に在日本大韓民国民団から支援の言葉を貰い、小沢もそれに謝意を表明し「帰化した韓国系」の投票を期待しているとの発言をしている。
; 公務員改革
: 幹部職員の内閣一元管理。公務員に対しては、スト権の付与と守秘義務違反の軽減を行う。また、政官接触を自由化する。特殊法人、独立行政法人、特別会計は見直す方向。
司法
自身の長年にわたる政治資金規正法違反事件(後述)を扱っている検察審査会について、「素人が判断できるようなことなのか」と、と、制度改変を迫る姿勢を示している。
経済、財政政策
『日本改造計画』で小さな政府路線を標榜し90年代以降の新自由主義的な構造改革の先駆けだった。しかし民主党代表となってからはその路線を急転させ、「行き過ぎた市場主義」の修正と「国民の生活が第一」というスローガンを前面に打ち出した。
; 税制
: 『日本改造計画』では消費税の10%への引き上げと所得税の半減が持論で、細川政権でも国民福祉税構想をぶち上げたが、新進党時代の後半からは消費税論議を封印した。年金の特定財源化を行い、すべての年金を一元化する。1人月額6万円を支給する基礎年金と従来の保険料方式を維持した所得比例年金の2階建て。消費税は5%に維持するが、その税収はすべて全額を福祉目的税化し、基礎年金に割り当てる。しかし、消費税5%分(約13兆円)だけでは年金の基礎部分を賄えないため、必要な財源は既存予算から捻出するように努力する。13兆円では、国民の半数にしか年金が支給できないとの批判があったが、「給付する人を低所得者に限るため、13兆円で足りる」と反論した。
: 道路特定財源の一般財源化を行い、揮発油税(ガソリン税)の暫定税率を廃止する。2008年3月28日にはこれに関して「暫定税率を延長する必要はなく、国民生活のために還元をしたほうが良い」と主張した。廃止に伴う地方財政への影響に関しては、道路特定財源の内で地方へ行くと予定されているのは9000億円であるが、そのうち市町村分の3000億円には手当てが必要であるとの見解を示し、その手当てを一般会計・特別会計の余剰金の利用や無駄の削減で市町村分へ配分することは可能だとした。
; 貿易・通商
: 徹底した自由貿易論者であり、「北東アジアから東南アジア、最終的には全世界まで広げたフリートレード(自由貿易)を実現する」ことが夢であると明言している。
; 地方分権
: 中央集権体制から地方主権体制への移行。中央政府の権限は外交・治安などに限定し、その他の権限を地方に移譲する。また、個別補助金は官僚支配を生み利権の温床となるため廃止し、自主財源として一括交付する。財源・権限を地方に移譲することで地域経済の活性化につながる。地方分権を推進するため、市町村の300程度への集約を行う。
; 格差是正
: 社会的格差を是正する。子育て支援をし、親と同居している世帯に対して「親手当」、子供がいる世帯に対して「子ども手当」を交付する。管理職は自由競争だが、非管理職は終身雇用にする。労働法は長期安定雇用を基本とするべき。挫折した経営者・労働者の再起、再就職の支援制度を拡充する。
; 移民政策
: 自民党と財界一部に「移民受け入れ」を検討する動きがある事を受け、「まったくダメだ。現在でも『奴隷労働』と言われる非正規労働者の問題が深刻なのに。発展途上国から単純労働者を受け入れることは、一種の奴隷制度ではないか。治安問題を心配する声もあるが、それ以前に、そういう形での移民受け入れは人間の尊厳に対する冒涜であり、人道的にとても認められない。」と述べ、与党の移民政策を批判した。
教育政策
与党案とは異なる民主党独自の「教育基本法」の制定。教育予算は先進国中低位の現状を是正し引き上げる。5歳から高校まで義務教育を広げる。すべての国民に高等教育の機会を与えるため、奨学金制度を拡充する。教師などの教育職員は国家公務員として身分を安定させ、争議権を認めない。
農業政策
わが国の安全保障を確保するためには現在39%に低下している食料自給率を他の先進国並みに高める。農家、農村の活力を再生するために、穀物などの主要農産物について戸別所得補償制度を導入する。トレーサビリティ制度の拡充と加工食品の原材料も含めた原産地表示の義務づけを行い、食の安全を確保する。
他党、支持母体との関係
; 選挙協力
: 思想的には保守であるが、自公政権打倒のためには共産党を含めた全野党による選挙協力も辞さないことを表明した。社会党の社公民路線以来、「非自民・非共産」として、共産外しが常態となっていた野党第一党の代表としては異例の見解であった。そのため、自公からはもちろん、党内の反共主義者からの批判が見られた。共産党は現時点では「市場主義重視」の民主党の「第三の道」路線に対して自公共々批判的であるため、実現しなかった。
; 大連立
: 2007年末に取り沙汰された大連立騒動(大連立構想 (日本 2007))では、民主党が政権を取る為には、自民党と連立し、連立政権の中で民主党のマニフェストを実現して、実績と政権担当能力を示す必要があると主張した。大連立構想が立ち消えになった後は自民党との対決姿勢を強め、選挙による政権交代を目指している。
; 労働組合との関係
: 未組織労働者や市民層からの支持を増やすことで協調的に労組との関係を維持した。
小沢が導入したシステム
小沢一郎が政界で導入したシステム(法案等)。
; 小選挙区制
: 政権交代を可能にするために画策した。
; 党首討論
: 自由民主党幹事長時代に尽力。法案を通した。
; 記者クラブ制度の撤廃
: 一般記者会見をフリージャーナリストにも開放し、上杉隆らが自由に取材している。
人物評
身長:173cm、体重:73kg、血液型:B。小沢と同じ田中派であった鳩山邦夫の元秘書である上杉隆によると、マスメディア等でプロパガンダが行われる「剛腕」「壊し屋」といったイメージは実際の小沢とは正反対のもので、よく地方へ選挙演説に行くと、その腰の低さ、人懐っこさが驚かれるという。このギャップこそが小沢一郎の政治界での強さを物語っていると評した。長男は倍率20の難関、海上自衛隊幹部候補生学校に合格したが3年で退学して現在は会社員である。三男は派遣社員。
2009年から国民新党で連立を組み、日本郵政社長に斎藤次郎を登用させる要因にもなった亀井静香は「あの人とは2度喧嘩して2度握手したけど、家臣が止めても桶狭間の戦いに行くような人間。政治手腕は織田信長以上。」と評した。また、評論家の副島隆彦は、「西郷隆盛以上の男」と論評して絶賛した。
かつては「剛腕」「壊し屋」、と称され、「政治とは権力闘争である」という政治観の持ち主であった。金丸信は小沢、羽田孜、梶山静六の3人を「平時の羽田、乱世の小沢、大乱世の梶山」と評した。
政界では小沢アレルギーが指摘され、90年代の政局は親小沢・反小沢を軸に動いたといっても良いくらいであった。民主党入り後も、同党代表・幹事長時代の党運営に対して不満が沸き起こった。幹事長退任後の菅直人政権では、小沢・反小沢を巡って党を二分する争いが続いている。「独断専行、側近政治、顔が見えない」との批判や、自民党分裂とその後の分裂工作、新進党分裂・解党、そして民主党での強引な党運営が、こうしたアレルギーの原因と言われる。
周囲からは東北人気質も相まって朴訥な人物と評された。そのことから説明する努力に欠け、側近が離れる一因となっているとも指摘された。本人曰く「去るもの追わず。来るもの拒まず」。また、強面のイメージであるが私生活では恐妻家と知られている。
健康問題
初当選直後に甲状腺癌を患ったことを明らかにしているが、手術で完治した。しかし竹下派会長代行として海部政権の実質的な実力者であった1991年夏に心臓病で入院して以来、心臓を巡る健康不安が絶えない。当時病名は狭心症と発表されたが、入院期間が42日にも及んだことから、心筋梗塞だったのではないかという憶測もある。大病後は健康管理に余念がなく、早朝に30分ほどの散歩をすることを日課とし、好きだった煙草は一切やめ、アルコールは日本酒を3合までに控えるよう心がけ、昼食後約2時間の休息を欠かさない。ただ、こうした制限が政治活動に影響を及ぼすこともあり、批判や憶測を呼ぶこともしばしばである。2008年10月6日から13日まで風邪で入院、同月23日に予定されていたインドのシン首相との会談を含む党役員会などの公務も体調不良ということでキャンセルし、シン首相との会談は鳩山幹事長が代理を務めた。第171回国会(会期2009年1月5日 - 6月3日)では、2月末までに11回開かれた衆院本会議のうち4回欠席している。。
信条
田中角榮を「オヤジ」として慕い、政治のイロハと人生の薫陶を受けたと語る。それは「どぶ板」とも言われる、人口密度の低い農村部から始め有権者の家を一戸一戸回っていく地道な選挙活動を決して怠らない事をオヤジから学んだという。歴史上の人物では、福澤諭吉を日本文明の祖として尊敬し、勝海舟や坂本龍馬にも一定の理解を寄せ、西郷隆盛を尊敬するものの、政治家・人物としては大久保利通を目指していると述べた。戦前歴代内閣総理大臣で尊敬する人物は原敬である。また、司馬遼太郎を愛読している。マンガでは弘兼憲史の「加治隆介の議(かじりゅうすけのぎ)」やジョージ秋山の「浮浪雲(はぐれぐも)」のファンで浮浪雲では「選・小沢一郎あちきの浮浪(はぐれ)雲傑作十選」という本も出版されている。
自民党離党
小沢が自民党を離党した際には、「談合政治」と言われる旧来型政治の打破と、イギリスやアメリカのような二大政党制に持って行きたいという明確なビジョンがあったという。小選挙区制を導入すれば同じ選挙区から自民党と社会党の政治家が選ばれるということが無くなるためであった。小沢は、自ら進んで自民党を離党したのでは無く、既得権益を持った一部の議員に追い出されたのだと述べている。当時の自民党竹下派では、国際貢献や小選挙区制度を巡り激しい対立があり、そうした政策対立ともからんだ竹下派の跡目争いで小沢・羽田グループが小渕恵三らに破れたことが、小沢の離党の背景にある。もっとも小沢自身は1993年の宮沢内閣不信任に賛成票を投じた後も離党する気はなく、党内改革を行うつもりであったが、不信任案には反対した武村らが率先して離党したことが引き金となった。
宗教観・文明観
自民党幹事長時代、与野党逆転国会を乗り切るために公明党と協力関係を築いた。細川連立政権でも市川雄一と一・一ラインを敷き、政権運営の主導権を握ろうとした。しかし新進党時代は党に参加していた公明と対立し同党解党の原因の一つとなった。
2009年11月10日、高野山・金剛峰寺を訪問し、当時の全日本仏教会会長で高野山真言宗の松長有慶管長と会談した際、キリスト教とイスラム教が共に排他的と断じ、「(排他的な)キリスト教を背景とした文明は、欧米社会の行き詰まっている姿そのもの」と批判すると同時に、「仏教はあらゆるものを受け入れ、みんな仏になれるという、非常に心の広い度量の大きい宗教・哲学」と述べた。
この発言に対し、日本キリスト教連合会(山北宣久委員長)は翌11月11日、発言撤回を求めて小沢宛の抗議文を民主党本部に送付した。小沢は11月16日の記者会見で「宗教論と文明論を言った」「(仏教は他の宗教と)基本的な考え方が違うということを言っている」と説明した。
2010年8月、小沢は都内での公演で、アメリカ人がオバマ大統領を選出したことを賞賛する発言をしたが、その一方で、「米国人は単細胞」などと述べた。この件は、前述したキリスト教についての差別発言とともに、アメリカで報道された。
囲碁
囲碁の腕前はアマ六段で、政界最強とも評されている。依田紀基の指導を受けているとされる。
政界には、小沢より高段のアマ七段をもつ与謝野馨がいる。与謝野もまた、数年前まで小沢に碁の指導をしていた(つまり形を変えた師弟関係)。
小沢は、囲碁普及を目的として日本棋院週刊碁特別企画のイベントでたびたび公開対局をしている。そのイベントで2007年10月28日、ANAインターコンチネンタルホテル東京・囲碁サロン「Ranca」にて、与謝野馨と対決した。互先コミ6目半、師与謝野が黒を握り、2時間半の激戦の末、小沢が勝負を制した。また、12月29日、同所で開催された同イベントで作家の渡辺淳一と対決し、小差ながらも勝利した。
プロとも何度も対局している。民主党政権奪取前は小川誠子、依田紀基ら多数。
* 2009年11月24日、フジテレビのイベント「お台場オトナPARK2009 - お台場碁番街」 - 台湾出身の女流本因坊、謝依旻(当時20歳)- 3子置き - 小沢敗北
* 2009年12月12日、韓国 - 韓国囲碁界のタイトル王・チョ薫鉉九段 - 4子置き - 小沢勝利
* 2010年1月10日 民主党青年局主催「成人の日イベント」 - 名人井山裕太(奇しくも20歳の成人) - 3子置き - ジゴ(ドロー)
インターネット
; ニコニコ動画
: ニコニコ動画などのインターネットメディアについては、好意的な発言を行っている。新聞やテレビなど既存のメディアは編集して報道する点を指摘したうえで、インターネットメディアなら生の声が国民に伝わりやすいと評価している。
: 2007年7月、第21回参議院議員通常選挙の直前にニコニコ動画へ出演し、話題となった。その後も2008年11月や2009年元旦に「1万人ネット会見」を行った。また、2008年9月から公式動画コーナー「小沢一郎チャンネル」を開設した。2010年9月には、民主党代表選挙への立候補に際して、ニコニコ動画の番組に出演した。
; ツイッター
: ツイッターには興味を示すものの、操作が難しいことを理由にアカウントの開設には至っていない。ただ、ツイッターでは小沢を名乗るアカウントが後を絶たず、上杉隆らの取材により成りすましアカウントであることが明らかになっている。ニコニコ動画の番組に出演した際、上杉から成りすましが横行していると知らされ、小沢本人が苦笑する場面もあった。しかしその数日後、成りすましアカウントのつぶやきを真に受けたTBSテレビが小沢がツイッターを始めたと誤報してしまい、直後に謝罪する騒動も発生した。小沢に成りすましたアカウントの中には、9000人以上のフォロワーを集めるアカウントまで出現している。
: また、ニコニコ動画の番組内にて、小沢は事務所スタッフにツイッターの操作を習得させることを示唆していた。2010年9月10日、ツイッターに小沢一郎事務所の公式アカウントが開設された。ただし、小沢個人としてのアカウントではなく、あくまで事務所のアカウントのため、小沢本人ではなく事務所のスタッフのつぶやきが投稿されている。同日のつぶやきでは「現在、小沢一郎『本人』は公式Twitterアカウントを取得しておりません。なりすましにご注意ください」と呼びかけている。
田中角栄
* 田中角栄の長男である正法(1947年、5歳で死亡)と小沢が同じ1942年生まれであったため、角栄は小沢を息子のように可愛がったとされた。それに対して小沢も角栄を慕い、田中派から独立した経世会に所属した国会議員で唯一、田中の裁判をすべて欠かさず傍聴した。同時に角栄の娘、田中真紀子との関係もよく(真紀子も、小沢を兄のような存在だと認識している)、旧竹下派の中では唯一田中家から許されているため、命日には田中家を訪問した。そのため親交が深く、真紀子の自民党離党、民主党会派入りに小沢は尽力した。また、「政治の父は田中角栄」と公言した。
* かつて田中角栄の懐刀だった小沢と福田の因縁の戦いは、「第二の角福戦争」と呼ばれた。しかし当人たちにはそのつもりが全く無く、福田を舌鋒鋭く批判する角栄の娘の田中真紀子元外相の方が注目され、これが真の「第二の角福戦争」だと見る向きもあった。
愛犬
* 2006年4月の衆議院千葉7区補欠選挙で党の広告に柴犬の「もも」を起用。補選で「もも」は小沢や候補者たちの応援に出向き話題をさらった。小沢によれば当時の小沢の飼い犬であった柴犬「ちび」と似ているという。2007年10月、その「チビ」を失い小沢は大粒の涙を流し号泣したが、2008年、新たに柴犬の子犬2匹を飼い始め、毛並みの色から「クロ」、「チャイ」と名付けた。
ニートについて
* 「本人たちは「誰の迷惑にもなっていない」と言うかもしれないが、親の稼ぎで食わしてもらっているうえ、国民全体で支える公共的サービスは享受している。病気でもない働き盛りの若者が、漠然と他人に寄生して生きているなど、とんでもない。」
* 「政府は「少子高齢化の進む人口減少社会で、経済の活力を一段と失わせかねない」として、今後、ニートの就職支援に本腰を入れるというが、果たしてそんな次元の話なのか。僕に言わせれば対策は簡単だ。一定の猶予を与えて、親が子供を家から追い出せばいい。無理矢理でも自分の力で人生を生きさせるのだ。追い詰められれば、彼らも必死に考えて行動するはずだ。それでも働きたくないというなら、勝手にすればいい。その代わり、親の世話には一切ならず、他人に迷惑(犯罪も含む)もかけず、公共的サービスも受けないことだ。無人島でも行って自給自足の生活でもすればいい。」
韓国をめぐるエピソード
米国、中国との国際交流
* 小沢は、日米、日中の交流が世界の平和と安定に不可欠と考えて、政治家としての公的な仕事とは別に自分のライフワークとして草の根レベルの国際交流活動を続けた。米国とは1990年に「ジョン万次郎の会」を立ち上げ、1992年に財団法人ジョン万次郎ホイットフールド記念国際草の根交流センターを設立した。2001年、日本に関心の高いシカゴ市の特定中学校の生徒を毎年20人程度日本に招待した。中国とは、1986年に第1回長城計画が中華全国青年連合会の協力を得て開催され、青年指導者、大学生を毎年数十名を招待した。国際交流活動は、実施団体とともに小沢事務所が担当したため、複数の外国人の大学院留学生が事務所で働いていた。
「クイズ100人に聞きました」でのエピソード
* 小沢は1986年にTBSの『クイズ100人に聞きました』にゲスト出演し、「赤が入っている曲名と言えば」の問題で童謡「赤い靴」の歌いだしの部分「赤い靴、はいてた、女の子」と恥ずかしそうに歌いながら答えたのである。結果は1番の画面に入っており大正解であった。
* 「私の亡父も票田こそ残してくれたが、遺産はなかった」1983年1月20日産経新聞
* 「公約は膏薬(こうやく)。張り替えれば効き目がでる」(新進党時代の同僚議員への口癖)
* 「記者会見は"公共の"サービス」(1993年、記者団に。公財だから、懇談という形で特定の記者だけに開かれるのはおかしいというのが世間では逆に伝わっている。)
* 「日本人は特殊な人種だ。(世界から)特殊学級扱いされている。ばかじゃないかと」(2003年 小泉純一郎首相の自民党総裁再選を批判して)
* 「安倍内閣は脳死状態」(2007年、参院選敗北後の安倍晋三内閣の求心力低下を皮肉り)
* 「給油法案は、国民にとって重要な法案ではない」(2008年、同法案の衆院再議決を欠席したことについて)
* 「日本がもたもたして在日韓国人の地方参政権を認めないのは遺憾だ」(2008年、韓国の李明博大統領との会談で)
* 「総理大臣になって首脳会談ということなら、多少体調が悪くても欠席することはない。私、野党だから。総理大臣じゃない。国務大臣でもない。勘違いしないでください」(2008年、インド・シン首相との会談をドタキャンしたことについて)
* 「おれはまったく米国のことは信用していない。日本の国益を守るために言うべきことは言わないといけない」(2009年2月14日都内の料理屋で国民新党の亀井静香代表代行らと会談において、クリントン米国務長官から会談を打診されていることに関して)
* 「私は、日米同盟がなによりも大事であるということをずーっと以前から、最初から唱えてきたひとりでありますと。」 (2009年2月17日クリントン国務長官との会談後のインタビューで)
* 「政治の細かいことを知る必要はない。自分たちの1票で政権を代えることができる。それだけを分かってもらえたらいい」(2008年10月19日 インターネットのテレビ番組にて)
* 「僕は選挙担当だから。選挙以外のことは他の人に聞いてください。」(2009年05月30日TBS知っとこ!西松問題の説明責任を問われて)
* 「担ぐミコシは軽くてパーがいい。担ぎ手の思うがままに動く」。首相時代の海部俊樹を指したものと誤解されることがあり、海部自身も後年の回想録で自分を指した発言であると誤解しているが、実際には1982年の自民党総裁選で田中派が中曽根康弘を支持した際のオフレコ発言である。1994年になって政治記者の田崎史郎が発表した記事によって、初めて明らかになり、話題となった。なお、側近の平野貞夫は海部政権時代の1990年に自身が新聞記者に発した言葉が誤って伝わったと2008年になって主張しているが、前述のとおり「担ぐミコシは~」発言の記事を発表した田崎のオフレコメモでは1982年の小沢発言と明記されており、「おれたちは党だけでなく、内閣をとるつもりで、中曽根を選んだ」と中曽根を名指しした台詞まである。
* 「自民党に投票したら投票に行かなかった人と同じで政治について文句を言う資格はない」
* 「これ以上何を謝ればいいんだ。」盧泰愚大統領訪日の際に。
* 「じゃあやり直したらいいじゃねえか、そんな事を言うんだったらやりなおそうじゃないか。」宗教法人法改正問題で大久保直彦議員らに小沢の姿勢は弱腰と詰問され野次に対しての応酬で。
* 「私は人民解放軍の野戦軍司令官として頑張っている」2009年12月10日北京市内の人民大会堂で胡錦涛中国国家主席との会談において。
* 「日本国民として謝罪しなければならない歴史的事実だ」(2009年12月12日韓国ソウル, 国民大学校講演で日本の韓国植民地支配に触れ)
* 「天皇陛下も '桓武天皇の生母は百済の王女だった' と認めている」(2009年12月12日韓国ソウル, 国民大学校講演)
* 「内閣の一部局の一役人が内閣の方針についてどうこう言うなら、辞表を提出してから言うべきだ」2009年12月14日天皇と中国の習近平副主席の会見をめぐり、政治利用にあたるのではないかとの懸念を表明した羽毛田信吾宮内庁長官について。
* 「党務を預かる幹事長は、選挙戦に勝つこと。党の支持率は関係ない」「(支持率低下を)全然心配しておりません。新聞、テレビの世論調査、当たったことねぇもん、ほとんど」2010年4月12日党本部記者会見にて、各報道機関の世論調査で党や内閣の支持率が低下していることについて。
拉致問題に関する発言
2009年3月2日付産経新聞朝刊1面における「民主党解剖1」の記事中において、小沢が、2月上旬、都内で開かれた民主党議員と支持者による会合において「拉致問題は北朝鮮に何を言っても解決しない。カネをいっぱい持っていき、『何人かください』って言うしかないだろ」と発言したことが報じられた。
この記事を受けて、救う会には、電話やメールで問合せが殺到し、救う会では、西岡力会長代行が「小沢民主党代表発言は事実なのか」と題するコメントを発表した。
これに対して民主党は、民主党幹事長代理から産経新聞社編集局長と政治部長宛に「記事は『事実無根の報道』」として記事の訂正と謝罪を求め、3月4日中に回答することを要請した。
この要請に対して、産経新聞政治部長は、3月4日、文書で民主党幹事長代理宛に「正当な取材の結果得られたもので、かつ裏づけもとれているもの」という旨を回答しているが、これに対する民主党の反論は全く行われていない。
なお、小沢のこの発言については、産経新聞以外のメディアではほとんど取り上げられず、民主党も、救う会へ宛てたFAX以外では、反論も含めて一切触れていない。
失言
アメリカ人・英国人に対する発言
民主党の小沢一郎前幹事長は2010年8月25日の「小沢一郎政治塾」の講演で、米国観を語り、「米国人は好きだが、どうも単細胞なところがあってだめだ」と述べた。
米国のオバマ大統領について「絶対、黒人大統領はあり得ないと思っていた社会で、黒人大統領が誕生した。黒人が出たら暗殺されるといううわささえ以前にはあったが、この危機にあたって変化を強調したオバマ氏を選んだ」と指摘。
「決して米国人は利口だと思っていないが、民主主義、危機にあたって国民の意思による選択がきちんと実行されていることを非常に高く評価している」と強調した。
また、小沢氏は「政界でも官界でも財界でも、精神の荒廃、日本人の劣化が急速に進んでいる」と問題提起。
第2次世界大戦を舞台にした映画「戦場にかける橋」に登場する英国人捕虜の規律正しさを紹介し、英国を「さんざん悪いことをして紳士面しているから好きではない」としながらも「祖国のために戦う軍隊も、自分たちの意思で(作った)という意識がある。自分たち自身の社会であり、国であるという民主主義の基本の意識が徹底している」と評価した。
2009年から2011年の小沢関連の刑事訴訟
2009年3月に小沢一郎の公設秘書である陸山会会計責任者である大久保隆規と西松建設社長の國澤幹雄が政治資金規正法違反で検察に逮捕、起訴された。
当時民主党代表だった小沢は秘書が起訴された責任問題について違法性を否定しつつ検察の捜査を批判し、党代表続投を表明。しかし、この問題における党内の動揺を受け、5月11日に小沢は民主党代表を辞任した。
2010年1月、石川知裕衆議院議員を含め小沢一郎の秘書3人が検察によって政治資金規正法違反容疑で逮捕され、2月に起訴された。
当時民主党幹事長だった小沢は秘書が起訴された責任問題について違法性を否定しつつ検察の捜査を批判し、党幹事長続投を表明。しかし、4月に検察審査会が1回目の起訴相当議決をし、検察が不起訴としても2回目の起訴相当になると、小沢一郎が強制起訴になることから、民主党内の動揺が広がった。6月に鳩山由紀夫首相が民主党の政治とカネに決着をつけるべき辞意表明をしたことを受け、小沢も民主党代表を辞任した。
2010年10月、小沢一郎に対して検察審査会が2回目の起訴相当議決をし、2011年1月に強制起訴された。このことを受け、民主党から裁判確定まで無期限の党員資格停止処分を受けた。
小沢一郎支持者や検察批判者らから、これらの刑事訴追については批判の声があがっている。
資金管理団体の土地購入問題
政策秘書公職選挙法違反容疑
2007年の第21回参議院議員通常選挙で当選した同党の青木愛の選挙運動員が事務所の指示を受け、参院選公示前日の7月11日、業者に依頼して選挙ポスター付きの看板設置に関する契約を1本当たり500円で千数百万円分の契約を結んだ疑いで逮捕された。印刷会社社長が警察からの事情聴取で、小沢の政策秘書に報告しその内容を掴んでいたのではないかとも取れる供述を行なった。これに対し、小沢自身は8月31日の記者会見で「選挙違反に当たるような行為は一切していないという(秘書からの)報告で、私もそう思っている」と捜査や報道を批判し強く不快感を示した。9月14日、千葉地検は逮捕した印刷会社社長らを「選挙違反にはあたるが、違法性の程度が比較的軽かった」と判断して起訴猶予処分とし、小沢の政策秘書も立件せず捜査を終結した。
労働保険未加入問題
2009年3月3日、小沢の事務所が雇用しているアルバイトや私設秘書について、労働保険に未加入だったことが分かった。同事務所は「少なくとも3、4年は未加入になっており、かなりの人数分の未納保険料を納付することになる」と説明、今後、過去の雇用状況を調べた上で労働局に届け出る予定としているが、労働保険未加入発覚時のペナルティは、発覚時の前年度と前々年度分の保険料と、10%の追徴金のみであり、未加入分の多くは問責されないこととなる。 同事務所では、小沢の初当選以来、「正規の秘書」以外は届け出ていない可能性もあり、対象者は数百人規模になるという。
2009年9月25日、未納保険料を支払う際に必要な「算定基礎調査書」が、7月末現在で「不存在」だったことから、平成18、19年度分の保険料の納付がいまだに済んでいないことが産経新聞の調査で判明した。平成18年度の未納分と課徴金の納付については、7月中旬で時効となった。小沢事務所側は「(西松建設の違法献金事件の)捜査で経理書類をすべて押収され、未納分の調査や手続きに必要な書類がなく、総選挙の日程が重なったこともあり、手続きに時間がかかっている」と釈明した。検察に押収された書類については、返還やコピーを求めることができるが、同事務所は申請の有無については回答しなかった。
* 憲法調査推進議員連盟
* 民主党東北議員団連盟
* 民主党日英議員連盟
* 天皇陛下御即位二十年奉祝国会議員連盟(顧問)
* 北京オリンピックを支援する議員の会(顧問)
当落||当落||選挙||施行日||選挙区||政党||得票数||得票率||得票順位
/候補者数||比例区||比例順位
/候補者数
当||当||第32回衆議院議員総選挙||1969年12月27日||岩手県第2区||自由民主党||style="text-align: right;"|71,520||style="text-align: right;"|26.71||style="text-align: right;"|1/6|| - || -
当||当||第33回衆議院議員総選挙||1972年12月10日||岩手県第2区||自由民主党||style="text-align: right;"|60,675||style="text-align: right;"|19.18||style="text-align: right;"|2/8|| - || -
当||当||第34回衆議院議員総選挙||1976年12月5日||岩手県第2区||自由民主党||style="text-align: right;"|71,449||style="text-align: right;"|21.98||style="text-align: right;"|1/6|| - || -
当||当||第35回衆議院議員総選挙||1979年10月7日||岩手県第2区||自由民主党||style="text-align: right;"|70,183||style="text-align: right;"|21.52||style="text-align: right;"|1/7|| - || -
当||当||第36回衆議院議員総選挙||1980年6月22日||岩手県第2区||自由民主党||style="text-align: right;"|72,838||style="text-align: right;"|22.27||style="text-align: right;"|1/8|| - || -
当||当||第37回衆議院議員総選挙||1983年12月18日||岩手県第2区||自由民主党||style="text-align: right;"|63,212||style="text-align: right;"|18.87||style="text-align: right;"|4/6|| - || -
当||当||第38回衆議院議員総選挙||1986年7月6日||岩手県第2区||自由民主党||style="text-align: right;"|95,208||style="text-align: right;"|24.80||style="text-align: right;"|1/7|| - || -
当||当||第39回衆議院議員総選挙||1990年2月18日||岩手県第2区||自由民主党||style="text-align: right;"|89,449||style="text-align: right;"|24.08||style="text-align: right;"|1/7|| - || -
当||当||第40回衆議院議員総選挙||1993年7月18日||岩手県第2区||新生党||style="text-align: right;"|142,451||style="text-align: right;"|40.82||style="text-align: right;"|1/6|| - || -
当||当||第41回衆議院議員総選挙||1996年10月20日||岩手県第4区||新進党||style="text-align: right;"|125,619||style="text-align: right;"|64.68||style="text-align: right;"|1/4|| - || -
当||当||第42回衆議院議員総選挙||2000年6月25日||岩手県第4区||自由党||style="text-align: right;"|119,099||style="text-align: right;"|59.70||style="text-align: right;"|1/4|| - || -
当||当||第43回衆議院議員総選挙||2003年11月9日||岩手県第4区||民主党||style="text-align: right;"|128,458||style="text-align: right;"|65.11||style="text-align: right;"|1/4|| - || -
当||当||第44回衆議院議員総選挙||2005年9月11日||岩手県第4区||民主党||style="text-align: right;"|124,578||style="text-align: right;"|59.95||style="text-align: right;"|1/4|| - || -
当||当||第45回衆議院議員総選挙||2009年8月30日||岩手県第4区||民主党||style="text-align: right;"|133,978||style="text-align: right;"|62.55||style="text-align: right;"|1/5|| - || -
当選回数14回 (衆議院議員14)||当選回数14回 (衆議院議員14)
実家
; 父・佐重喜(弁護士、政治家)
: 明治31年(1898年)11月生 - 昭和43年(1968年)5月没。
: 岩手県胆沢郡水沢町(水沢市を経て、現奥州市)出身。
: 小沢一郎は佐重喜について「父は三十歳の時から東京の市会、府会議員となって、政治の世界に入り、戦後は郷里から衆議院議員として国政に参加した。その長い政治経歴を評価されて、国会運営や党の国会対策の実務を担当し、たびたび選挙対策本部長となって選挙の采配を揮っていた。その父は小選挙区制の導入を持論としていた」、
: 「親父は、じいさまが酒に溺れて身上をつぶして水飲み百姓の小作人のせがれとして食うや食わずで育ったんだ。それで、ものすごく貧乏だったせいかどちらかというと反体制的な考え方だった。戦後の経済万能主義の社会や政治を嫌悪していたし、エスタプリッシュメントというものに対する反発を非常に強くもっている男でした」と述べている。
; 母・みち(元千葉県会議員荒木儀助の四女)
: 明治34年(1901年)2月生~ 平成7年(1995年)2月没
: 奥野修司著『小沢一郎 覇者の履歴書』50頁によると「みちは明治三十四年二月十五日に千葉県の元庄屋の娘として生まれている。実家はかなりの豪農で生まれたときからお嬢様として育てられたという。九段の精華高等女学校では、のちの鹿島建設会長夫人になる鹿島卯女も同窓だった。」という。
: 奥野修司著85頁によると「このみちは明治三十四年に荒木儀助と妻かのの四女として千葉県東葛飾郡風早村で生まれているが生家は“駅からよその土地を踏まずに家まで帰ることができた”といわれるほどの大地主だったようだ。父親の儀助も千葉県の県会議員になっているほどだからかなり裕福だったことは推測できる。両親はともに教育熱心だった。のちに医者や弁護士になっている家族もたくさんいて、みち自身も東京九段の精華高等女学校を卒業しているほどである。このときのみちの同級生が、のちの鹿島建設会長夫人鹿島卯女である。
:のちにゼネコン汚職が政界に吹き荒れたとき、鹿島建設から一郎に五百万円の献金が渡っていたことが明らかになるが、他のゼネコンとは違い、小沢家と鹿島家との付き合いはまさにこのときに遡るともいえる。弁護士とはいえ、このときの小沢家は荒木家にくらべれば不釣り合いな生活環境である。二人が出会うのは奇遇としかいえないが、しかし、佐重喜とみちは見合いを通して結ばれる。父親の儀助は佐重喜の将来性を見込んだのかもしれない。」という。
; 姉(2人)
自家
; 妻・和子(新潟県の建設会社福田組会長・福田正の長女)
; 三男あり
他家
; 親戚
: 竹下亘(政治家、元首相竹下登の異母弟、妻は福田正の二女)
: 金丸信(政治家、金丸の長男の妻は、元首相竹下登の長女)など
;小沢家(岩手県奥州市、東京都世田谷区)
小沢一郎は自身の家系について、古代東北の英雄として知られた蝦夷・アテルイの末裔であるため“反骨精神が旺盛だ”と述べている。
父小沢佐重喜は岩手県胆沢郡水沢町(水沢市を経て、現奥州市)の農家に生まれ、1923年(大正12年)、日本大学法学部を卒業するとその年の12月に25歳の若さで弁護士試験に合格し翌年弁護士事務所を開業する。東京市会議員、東京府会議員を経て、1946年(昭和21年)、衆議院議員に当選する。第2次吉田茂内閣の運輸大臣、第3次吉田茂内閣の逓信大臣、初代郵政大臣兼初代電気通信大臣、第5次吉田茂内閣の建設大臣、第2次池田内閣で行政管理庁長官、北海道開発庁長官等を歴任する。
(14代)
竹中藤右衛門━━┳寿美
┃
┣竹中宏平━━竹中祐二
┃ ┃
┗竹中錬一 ┃
┃ ┃
米内光政━━━━和子 ┃
(元首相) ┃
(元首相) ┃
┏竹下勇造━━━━┳竹下登━━┳公子
┃ ┃ ┃
┗武永貞一 ┣竹下三郎 ┣まる子
┃ ┃
┃ ┗一子
┃ ┃
┃金丸信━━━金丸康信
┃
┗竹下亘
┃
┃
福田正━━━━━┳雅子
┣福田実
┗和子
┃ ┏男
小沢佐重喜 ┣━━━━╋男
┃ ┃ ┗男
┣━━━━━小沢一郎
┃
荒木儀助━━みち
単著
* 『日本改造計画』(講談社、1993年5月、ISBN 4062064820)
* 『語る』(小林泰一郎構成、文藝春秋、1996年4月、ISBN 4163502106)
* 『男の行動美学』(プラネット出版、1999年9月、ISBN 4939110028)
* 『90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論』(五百旗頭真・伊藤元重・薬師寺克行編、朝日新聞社、2006年6月、ISBN 4022501634)
* 『剛腕維新』(角川学芸出版、2006年8月、ISBN 4046210885)
* 『小沢主義(オザワイズム)―志を持て、日本人』(集英社、2006年9月、ISBN 4797671297)
共著
* 『日米関係を読む』(アジア調査会編、ジェームズ・ファローズ・松永信雄共著、プラネット出版、1990年11月、ISBN 4881913123)
* 『ジョン万次郎とその時代』(川澄哲夫編、廣済堂出版、2001年7月、ISBN 4331507963)
* 『政権交代のシナリオ―「新しい日本」をつくるために』(菅直人共著、PHP研究所、2003年11月、ISBN 4569631908)
関連文献
* 『小沢一郎の「真実」―金丸、竹下を手玉にとる剛腕幹事長』(アイペック、1990年、ISBN 4870471000)
* 『平成名勝負物語?橋本龍太郎vs小沢一郎』(小林吉弥著、勁文社、1990年、ISBN 4766912497)
* 『劇画 橋本龍太郎VS小沢一郎?激闘譜』(さいとうたかを著、日本フローラルアート出版局、1991年、ISBN 4930831008)
* 『小沢一郎の政治謀略―政界の裏の裏がわかる本』(菊池久著、山手書房新社、1991年、ISBN 4841300228 )
* 『小沢一郎探検』(朝日新聞政治部編、朝日新聞社、1991年、ISBN 4022563435)
* 『小沢一郎・全人像』(小田甫著、行政問題研究所出版局、1992年、ISBN 4905786908)
* 『平成動乱 小沢一郎の野望』(板垣英憲著、DHC、1993年、ISBN 4887240023)
* 『小沢一郎の秘密』(佐藤淳一著、データハウス、1993年、ISBN 4887181698)
* 『小沢一郎・日本改造計画の危険性』(本澤二郎著、エール出版社、1993年、ISBN 4753912345)
* 『小沢一郎の逆襲―ベールに包まれた政界再編のシナリオを読む!』(竜崎孝著、サンドケー出版局、1993年、ISBN 491493809X)
* 『あの人 ひとつの小沢一郎論』(渡辺乾介著、飛鳥新社、1993年、ISBN 4870311291)
* 『小沢一郎の腕力ポイント読み』(伊勢暁史著、明日香出版社、1994年、ISBN 4870307081)
* 『小沢一郎総理大臣待望論』(板垣英憲著、ジャパン・ミックス、1994年、ISBN 4883211541)
* 『どっこい小沢一郎は生きている 全発言で探る、この男の次の一手』(上之二郎著、ベストセラーズ、1994年、ISBN 4584191131)
* 『小沢一郎真実の叫び―これだけはいいたい 小沢は日本の未来に危惧を抱き、平和な国と社会のために改革を図る』(蒲生輝著、三心堂出版社、1994年、ISBN 4915620778)
* 『小沢一郎日本国崩壊をすくう』(蒲生輝著、三心堂出版社、1994年、ISBN 4915620956)
* 『小沢一郎―覇者の履歴書』(奥野修司著、データハウス、1994年、ISBN 4887182457)
* 『小沢一郎の日本vs.武村正義の日本―あなたはどちらの国に住みたいか この2人がわかれば日本の将来が見えてくる』(小板橋二郎著、こう書房、1994年、ISBN 4769605080)
* 『池田大作vs小沢一郎 どうなる日本どうなる両雄の展開』(後藤寿一著、銀河出版、1994年、ISBN 4906436412)
* 『「小沢一郎日本改造計画」への挑戦状! 20代議員の描くキラリと光る改造計画』(「新党20代議員の会」編著、マネジメント社、1994年、ISBN 4837803431)
* 『河野洋平と小沢一郎の大戦略―宿命のライバル』(本沢二郎著、総合法令、1994年、ISBN 4893463829)
* 『悪魔の使者小沢一郎―あの強腕を裏で操るのは何者か 日本改造なんてとんでもない』(ヤコブ・モルガン著・忍野昭太郎訳、第一企画出版、1994年、ISBN 4887190166)
* 『小沢ウオッチング』(立尾良二著、東京新聞出版局、1995年、ISBN 4808305216)
* 『小沢一郎の時代』(板垣英憲著、同文書院、1996年、ISBN 4810380300)
* 『お笑い大蔵省極秘情報』(テリー伊藤著、飛鳥新社、1996年、ISBN 4-87031-293-X)
* 『小沢一郎―その「恐怖支配」の実態』(久慈力著、マルジュ社、1996年、ISBN 4896161017)
* 『政治が歪める公共事業―小沢一郎ゼネコン政治の構造』(久慈力・横田一著、緑風出版、1996年、ISBN 4846196143)
* 『盛岡大学疑惑を追及する―教育を食い物にする紳士たち』(久慈力著、新泉社、1997年、ISBN 4787797158)
* 『拝啓小沢一郎党首殿』(松沢成文著、ごま書房、1997年、ISBN 4341017748)
* 『小沢一郎の行動美学』(三菟雅文著 プラネット出版社 1999年 ISBN 4939110028)
* 『小沢一郎の大勝負 竜馬か!? 悪魔か!?』 (板垣英憲著、リヨン社、2003年、ISBN 4576031910)
* 『日本変革 菅直人+小沢一郎は政治をどう変えるのか』(板垣英憲著、ベストセラーズ、2003年、ISBN 4584159769)
* 『政党崩壊―永田町の失われた十年』(伊藤惇夫著、新潮社[新潮新書]、2003年、ISBN 4106100231)
* 『闇将軍―野中広務と小沢一郎の正体』(松田賢弥著、講談社、2003年、ISBN 4062117061)
* 『永田町「悪魔の辞典」』(伊藤惇夫著、文藝春秋、2004年、ISBN 4166603884 )
* 『政治の数字―日本一腹が立つデータブック』(伊藤惇夫著、文藝春秋[文春新書]、2005年、ISBN 4106101173)
* 『小沢一郎の政権奪取戦略』(大下英治著、河出書房新社、2005年3月、ISBN 4309243347)
* 『小沢一郎の日本をぶっ壊す』(大下英治著、幻冬舎、2006年8月、ISBN 4344408217)
* 『小沢一郎の真実』(平野貞夫著、講談社、 2006年9月、 ISBN 4066213557)
* 『「小沢一郎」入門―カリスマの原点 小沢一郎は何を考えているのか』(森田実著、三笠書房[知的生き方文庫]、 2006年10月、 ISBN 4837975887)
* 『政権交代―小沢一郎最後の戦い』(板垣秀憲著、 共栄書房、2007年7月、ISBN 4763410334)
* 『小沢民主党は信用できるか』(高市早苗編著、PHP研究所、2008年2月 ISBN 9784569697949)
雑誌関連文献抄
* 『現代』2004年2月号、小沢一郎・横路孝弘・伊藤達美「小沢一郎×横路孝弘―民主党の両極 安全保障論で合意する」
* 『週刊金曜日』2005年1月14日号、「本多勝一の憂刻ニッポン―小沢一郎(上)現行憲法の下で「無血革命」を目指す」www.ozawa-ichiro.jp/massmedia/contents/appear/2005/ar20050308142225.html
* 『AERA』2006年1月23日号、後藤正治「小沢一郎 思想政治家で終わるのか」
* 『世界』2007年11月号、小沢一郎「公開書簡 今こそ国際安全保障の原則確立を」
* やっぱり小沢でナイト (1994年、とんねるず)
* どんな総理も (1994年、とんねるず)
* 竹下亘(政治家)
* 竹下登(政治家・第74代内閣総理大臣)
* 田中角栄(政治家・第64・65代内閣総理大臣)
* 田中真紀子(政治家)
* 金丸信(政治家)
* 野中広務(政治家)
* 小佐野賢治(実業家・国際興業創業者)
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